高円寺―いかがわしさと信心が織りなす迷宮│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

Writer

青野賢一

#008

高円寺―いかがわしさと信心が織りなす迷宮

2013-07-17 15:19:00

1960年代後半頃の東京の写真を見ると、今とは随分雰囲気の違うところが多い。勿論、当時からある建物や交通機関は、写真の中とは変らずに今もその姿を見ることができるわけだが、圧倒的に建物の数が少ない場所や、あるいはその地域の用途が現在と異なっていたりするところは、大きく印象が違う。1932年に東京市に加わった郊外20区である世田谷や杉並などは、文字通りまだまだ郊外といった面影を残していた。
とはいえ、郊外といいながらも単なる寂れた情景が広がっているわけではない。阿佐ヶ谷、高円寺、荻窪あたり(つまり中央線沿線)には、古くから作家やアーティストが巣食い、60年代には活況を呈していた。1889年、後の中央線の一部となる甲武鉄道の新宿・立川間が開業し、荻窪駅が1891年、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺各駅が1922年に開業している。国鉄(現JR東日本)の駅が開業してから40年以上が経過していた60年代には、新宿のような繁華街とはまた違った文化が育まれていった。今回取り上げる高円寺にも、60年代(いやそれ以前のところもあるか)のまま、現在まで続いている商店や建物があちこちに見られる。

image2 高円寺中通り商店街に古くからある洋食屋。ショーケースの食品サンプルと造花の毒々しさがいい。

高円寺の歴史は、江戸時代にまで遡る。徳川家光が雨宿りに立ち寄り、その後鷹狩りの際にたびたび訪れた曹洞宗・宿鳳山高円寺。将軍様ご贔屓の寺として名を馳せ、それまで小沢村と呼ばれていたそのあたりの地域が高円寺村となり、今の高円寺という地名の元になっているのである。名高い寺があったということから、当時、門前町が形成されていただろうことは想像に難くないが、鷹狩りをするような土地であったことを考えると、その規模は小さく、まだまだ開けた土地ではなかったのではないだろうか。そんな長閑な雰囲気の高円寺の状況は、1923年の関東大震災によって変る。震災の被害が少なかったこの地域には、被害の大きかった東京市の中心部から多くのひとが流入し、昭和のはじめの頃にもなると、新興住宅地として発展。商店の数も増加し、街は活気を帯び始めた。
第二次世界大戦の東京大空襲で、高円寺一帯は焼け野原となり、高円寺駅は駅舎を焼失する。しかし、駅舎は応急処置を施して復旧、戦後の焼け跡には闇市が立った。今もこうした闇市の面影は、ガード下あたりの赤提灯からも感じられるだろう。この混沌が、この街の魅力のひとつであることは言うまでもない。「いくら何でも阿佐ヶ谷は見るのもいまいましいから、高円寺で降りた。いい加減にとびこんだガード下の焼鳥屋で一杯やった。川本三郎の本を読むと、中央沿線にはせいぜいヤキトリかラーメンしか食える物はないように受けとれたからである。」博覧強記で知られるドイツ文学者・種村季弘が『好物漫遊記』(1985年筑摩書房刊)のなかの「黄金の中央沿線」でこう書いている。引用中に出てくる川本三郎の本とは『雑踏の社会学』(ちくま文庫刊)。これに書かれている阿佐ヶ谷、高円寺、荻窪といった中央線沿線の素晴しさと、種村の地元である池袋の蔑まれぶりを受けて、愛情とアイロニーたっぷりに記したものであるが、ヤキトリとラーメンなんて、まさに闇市的ではないだろうか。

image3 ガード下ではないが、混沌とした時代を彷彿とさせる一角。ちょっと横道に入るとこういった光景は色々見られる。

現在の高円寺の顔に近くなるのは、戦後の闇市を経て、東京オリンピックの頃からである。商店街もそれまでより整備され(南口「高円寺パル商店街」の最初のアーケードは1979年完成)、それぞれの商店街から横に逸れた小道にある商店や飲食店、そして勿論高架下も合わさって、独特な迷宮的街を形作っている。足の赴くまま、適当に歩いていると、寺や神社がこの迷宮のなかに相当数あることに気付く。先に述べた宿鳳山高円寺だけでなく、「庚申通り商店街」には、その名の通り庚申塔があるし、「高円寺あづま通り商店街」には、弁天様が祀ってある。街のなかに寺社がすんなりと馴染み、暮らしや商いを守っているというような印象がある。

image4 商店街の通り沿いに突如現れる弁天様。毎月第3土曜日には縁日も開催されるそうだ。

近年の埋め立てや再開発によってできた街は、こうは行かない。整った街路、中央集権的なショッピングモール、それに隣接する高層マンション。そこにはクリーンなイメージはあるが、猥雑さやそれと表裏一体の信心深さはない。彷徨うべき横道もなければ(ふらふら歩いていると職務質問さえされかねない!)、ペロリと捲る地層もない。新しい街を蔑む気はないが、少し寂しい気持ちになるのは私だけではないだろう。だからこそ、構造で言えば何の変哲もない中規模の街、高円寺のような街の魅力が浮き彫りにされ、来街者が後を絶たない、とも言える。

image5 真言宗・長仙寺の近くにある古着屋「ガイジン」。ここでの展示「ガールズカラー」を観るのが今回の高円寺訪問の目的のひとつだった。

高円寺駅南口から左手に坂を下る途中には、氷川神社がある。この一角に、日本では唯一という「気象神社」なるものが存在する。1944年、陸軍気象部構内(現在の高円寺北4丁目)に造営され、戦後の神道指令の調査に漏れて残り、1948年の氷川神社例大祭の折に遷座祭を行って今の場所になったそうである。第一次大戦から重要視された飛行機にとって、天候の善し悪しはパイロットの生死に関わる問題であった。それゆえ、気象部は陸軍に置かれ、気象予報の的中を祈るための神社が建てられた。これが気象神社だ。

image6 氷川神社内の「気象神社」。毎年、6月1日の気象記念日に例祭を行うそうだが、ずっと雨知らずだとか。

気象神社の祭神は「八意思兼命」。天の岩戸に引き蘢った天照大神を引っ張り出すために、神楽舞の策を講じた神である。天の岩戸から天照大神を引き出し、世界に光をもたらすことに成功した八意思兼命は、光=太陽をコントロールする神であり、気象神社の祭神には大層相応しい。この気象神社の絵馬は、下駄を模したものだそうだ。子どもの頃、「明日天気になーれ!」と、靴をポーンと蹴り上げて飛ばし、晴雨を占ったことを思い出さずにはおけないだろう。こうした俗っぽさ、いかがわしさも、高円寺という街には何となくしっくりくるから面白い。



ドイツ文学者・種村季弘が1983年から1年間『BRUTUS』で連載していたエッセイに2篇を加えて単行本化したもの。好きな物を求めて歩く戦後40年。/
『好物漫遊記』種村季弘(著)筑摩書房刊

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BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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