蟻ーその2ー
2013-12-17 12:17:00
前編はこちら
蟻と言えば、バリ島の赤蟻は獰猛で毒を持っている。大きさも日本の一般の蟻より3倍も4倍もあるし、いつも大群をなして行動している。人間の存在も察知できるようで、手を近くにかざそうものなら、立ち上がって戦闘態勢に入る。噛まれると跳び上がるほど痛いし、蜂に刺されたように腫れる。すごいヤツらだ。
彼らに対して、バリニーズの対処方もすごかった。ウブッドのアウトドア・カフェのオーナーでぼくの友人のアグンは、赤蟻がカフェの庭を占拠し始めるのを見てとると、椰子の木のてっぺんから人間の頭ぐらいある大きな肉の塊を吊るした。赤蟻たちはすぐさまそれに群がり、肉はみるみるグロテスクにうごめく赤い塊と化した。何千匹もの蟻が肉に喰らいついているのだが、アグンは大きな松明をこれに近づけると、軍団を一瞬にして焼き殺した。バチバチっという音とともに何千という蟻が地面に落下していった。でも、蟻は所詮、蟻である。仲間たちの顛末も知らず、新しい軍団がまた肉に群がってきて埋めつくす。ころを見計らうと、アグンはまた彼らをバチバチと焼き殺す。ぼくは昼から夕方近くまでこのバトル(というか殺戮)を見物していたのだが、10回ほどのバチバチで赤蟻たちはほぼ全滅し、難を逃れた残兵たちもおずおずとカフェから撤退して行った。
アグンは蟻の死骸を店の外に掃き出しながら、「これで一週間ぐらい、ヤツらは帰って来ないだろう」と涼しい顔で言っていた。すごい世界である。
バリ島の赤蟻に関してはもうひとつ、忘れがたい思い出がある。
前妻のオンディーヌが海沿いのレギアンに家を借りて、ぼくらの息子のシャーと暮らしていたころのことだ。シャーがまだ5歳ぐらいのことだったと思う。
ぼくはオンディーヌと離婚の話をするためにバリ島を尋ねて来ていたのだが、ぼくたちは毎日、口喧嘩するばかりで話はまったく進展しなかった。
ある日、いつものような口論が始まり、これがいつも以上にエスカレートしたので、ぼくは頭を冷やすために家を飛び出した。
オンディーヌの家は林の中にあって、ぼくはその中の泥道をインドネシアのガラムを吸いながらしばらく歩いていた。角を曲がり、ちょっとした空き地の前に来たときだ。ものすごい光景に遭遇した。目の前を何万という小さな黒蟻の大群が大移動をしていて、これに何千という大きな赤蟻が襲いかかっているのだ。
黒蟻よりも4、5倍大きな赤蟻はそのギザギザした大きな口で黒蟻に噛み付き、ものの数秒で倒していく。一匹の赤蟻が何十匹という黒蟻を矢継ぎ早に仕留めていくのだ。
でも、数では圧倒的に有利な黒蟻もただやられているばかりではない。彼らは赤蟻に四方から襲いかかり、足に噛み付いて身動きとれなくすると一斉に体を覆いつくし、圧倒している。人海戦術ならぬ蟻海戦術である。見ると、目の前のうごめく黒い川のあちこちで黒蟻に覆いつくされた赤蟻ののたうつ姿が見える。
こうなると、どっちがどっちに襲いかかっているのか分からなくなってくる。もしかすると赤蟻の縄張りに黒蟻が集中攻撃をかけているのかもしれない。そんなことを考えていると、また違う方向から赤蟻の大群がやってきて、黒蟻軍団を蹴散らしていく。まるで歩兵に襲いかかる騎馬軍団のようだ。でも違う一角では黒蟻の大群が一握りの赤蟻を四方から囲み、津波のように飲み込んでいく。あちこちでそんな壮絶なバトルが繰り広げられているのだ。
ぼくは『ベン・ハー』や『スパルタカス』、『ハムナプトラ』や『指輪物語』といった、壮大な戦闘シーンのある映画が好きなのだが、目の前で展開されているのはまさにそんな一大戦闘スペクタクルだった。
ぼくは取り付かれたように1時間、2時間とこのバトルを見入っていた。もちろん、オンディーヌとの喧嘩のことなどすっかり忘れてしまっている。すると、いつの間にやって来たのか、そのオンディーヌがぼくの横にしゃがんでいて、「すごいわね。こんなの見たことないわ」と穏やかな声で言い、ぼくと一緒にこの戦いを見物し始めた。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。空がバリ特有の、溜息が出るほど鮮やかな茜色に染まり始めたころ、オンディーヌはぼくの手をそっと取ると、「そろそろご飯を食べにうちに帰ろう。シャーも待ってるよ」と言った。
彼女のこんな穏やかで優しい声を耳にするのは久しぶりのことだった。ぼくは目の前の戦場から彼女に目を向け、ゆっくりと立ち上がると、一緒に家へと帰って行った。
そしてその晩、食事の後、やっとフレンドリーな雰囲気の中、離婚の話を進めることができた。
おっと、何をやっているんだろう。蟻のことを考えていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。見上げると、空が日本の秋特有の、柔らかな夕焼け色に染まっている。
今日はまだ一行も書けていない。ぼくは蟻たちの世界を後にすると、パソコンの前の自分の戦場へと戻っていく。
Photo by HABU
ロバートハリス(Robert Alan Harris, 1948年9月20日 - )は、横浜市生まれのDJ、作家。血液型AB型。上智大学卒業後、1971年に東南アジアを放浪。延べ16年間滞在。オーストラリア国営テレビ局で日本映画の英語字幕を担当した後、テレビ映画製作に参加、帰国後FMステーションJ-WAVEのナビゲーター(DJ)や、作家としても活躍中。 自らの体験談は、若い世代を中心に共感を呼んでいる。
2013年6月10日に新刊『WOMEN ぼくが愛した女性たちの話』が発売されました。
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