恵比寿・アメリカ橋―青島ビールとポップ中毒者│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

Writer

青野賢一

#009

恵比寿・アメリカ橋―青島ビールとポップ中毒者

2013-08-06 12:38:00

通っていた高校、大学が白金にあったため、昔から恵比寿は身近な街のひとつだった。現在、恵比寿といえばどちらかというと、駅を起点にして駒沢通り周辺を思い浮かべる方が多いのではと思うが、1980年代の中盤から90年代にかけては、今のガーデンプレイス方面が面白かった(少なくとも私は)。

image2 恵比寿南一公園側から恵比寿ガーデンプレイス方面を臨む。ガードレールの錆び具合と、その先の建物とのギャップ。

恵比寿という地名は、元々その土地に根付いていたものから採用されたわけではない。この地名と深く関わっているのは、ビールである。現在の恵比寿ガーデンプレイスは、サッポロビール恵比寿工場跡地であることはよく知られているが、恵比寿駅そのものも、当初はビール出荷用の貨物駅だった。1887年、サッポロビールの前身である「日本麦酒醸造会社」が設立され、目黒区三田(当時は目黒村三田)に醸造所が作られる。1885年には、後の山手線の原形となる、品川と赤羽を結ぶ「品川線」が開業しているが、その頃存在していた駅は、品川、目黒、渋谷、新宿、目白、板橋、赤羽であり、恵比寿駅はまだない。富国強兵、殖産興業という近代化政策の一環として開催された内国勧業博覧会の第3回(1890年)で、日本麦酒醸造会社の「恵比寿ビール」は高い評価を得て、人気を博し、「恵比寿」の名が世に大きく知られるようになると、出荷量も増大。そうして出来たのが、ビール出荷専用の貨物駅「恵比寿停留所」である。1901年のことだ。ひとを乗せての旅客営業は1906年まで待たねばならない。

image3 ガーデンプレイス内にある「ビヤステーション」。「三越」裏手のサッポロビール本社の一角には「ヱビスビール記念館」もある。

そう、恵比寿駅の発展は恵比寿ビール(現「ヱビスビール」)とともにあった。私が学生のときに感じていた印象には、こうした理由があったのだった(もちろん、当時はそんなことは気にする術もなかったが)。今となっては信じがたいひとも多いかもしれないが、かつて恵比寿には、電車をそのまま使用した「恵比寿ビアステーション」なるものもあった。1985年にスタートしたこのビアステーションは、旧型車両を用いたもので、中ではジンギスカン料理などを出していて、なかなか繁盛していたように記憶している。また、「恵比寿ファクトリーⅡ」というイベントスペースでは、テクノポップを通過した、あるいはポスト・テクノポップとでも呼ぶべき新しい音楽のライブや、オールナイトのDJイベントなどが行われ、東京のユースカルチャーという側面でも、恵比寿は重要なポジションを担っていた。斯様な賑わいを見せていた目黒区寄りのこのエリアで、もうひとつ忘れてはならないのが「アメリカ橋」である。

image4 「アメリカ橋」の中央あたりから、目黒方面を見た景色。左手はガーデンプレイスだ。

スカイウォークをガーデンプレイスのところで下りて、右手を見ると陸橋が架かっている。これが「アメリカ橋」である。正式名称は「恵比寿南橋」という。元々は、アメリカ・セントルイス万国博覧会(1904年)に出展されていたものを当時の国鉄が鉄橋のモデルとして買い取り、1926年に架設したということで、随分と古い歴史のある陸橋だ。ちなみにこの橋が出展されていたセントルイス万博で、「恵比寿ビール」はグランプリを受賞しているというから、恵比寿という土地とセントルイスは不思議と縁が深い。

image5 橋の脇には、アメリカ橋の由来が書かれている。現在の橋は「二代目」という記述が。

橋を渡って、左にずっと行くと、目黒駅方面に出る。右に折れて、線路沿いから道なりに進めば(多少の右折左折はあるが)恵比寿駅西口のルノアールの近くに出ることが出来る。恵比寿ガーデンプレイスが出来る前は、当然スカイウォークもなかったので、アメリカ橋方面に向かうには、恵比寿駅西口のルノアールを起点とするルートで行かねばならなかった。今回、改めてこのルートを辿ってみたが、途中急勾配の上り坂があって、今のような季節にはかなりきつい。大学の頃に、蝉の声を聞きながら歩いたことを思い出した。あれはどこに向かっていたのだろうか。

image6 線路沿いで見つけたトマトとピーマン。この付近は、昔からあると思われる住居も多いエリア。のんびりとしたムードが漂う。

アメリカ橋の途中には、飲食店が数軒入居している建物がある。わたしが学生の頃には、もうすでにこの建物はそこにあった。1980年代は、食を取り巻く環境に随分と変化があった時代だ。それまであまり一般的でなかった、タイ料理やベトナム料理、台湾の飲茶などがエスニック料理という名の下に括られ、ポピュラーになった(音楽もワールド・ミュージックがよりポピュラーになった時代でもあった)。件のアメリカ橋の途中の建物にも「月世界」という(確か)台湾料理の店が入っていたのだが、ここがなかなかの人気店で、客層もお洒落なものであった。店内は、こざっぱりしていながらもちょっとキッチュな匂いがあって、知らないはずなのに懐かしささえ憶えるような雰囲気であった。そこで飲む青島ビールは、洒落たものに感じた。いつの間にか店は変わったが、建物は当時のままの姿を残していて、前を通るたびに、かつての様子を思い出さずにはいられないのである。

image7 かつて「月世界」があった建物は今も健在。この建物の脇から階段を下ってゆくと、どことなくエキゾティックな気分が味わえる。

今年の1月に文庫化された、川勝正幸さんの『ポップ中毒者の手記(約10年分)』には、この頃を思い出させることがたくさん書かれている。改めて読み直してみると、意識していたもの、していなかったもの含め、相当「川勝仕事」に影響を受けていたことを自覚せざるを得ない。「渋谷系」と人々が呼んだムーヴメントはなんだかちょっと気後れしてしまって、斜に構えてみていたところがあったわたしだが、つまりは手のひらで遊ばされていたようなものだったわけである。
青島ビールとこの本は、わたしをあの頃の恵比寿に連れていってくれる。



1996年に刊行された、川勝正幸さん初の「ポップ・カルチャー・コラム集」が嬉しい文庫化。氏の仕事の幅とクオリティ(とユーモア)に圧倒される。つくづく、不在が寂しい。/
『ポップ中毒者の手記(約10年分)』川勝正幸(著)河出文庫刊

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BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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