秋葉原―趣味が生活を飲み込む
2013-10-04 16:46:00
「レムブラントは名画を集めるので金を使ひ果し、惨めな死に方をしたと云ふ。あれ程の画家がと人は云ふかも知れぬが、それだけ夢中になつたのは、レムブラントに純な心があつたからとも云へる。又は人一倍絵の美しさが感じられたからとも云へる。貧乏する苦しみよりも、絵を買う悦びの方が強かつたのである。貧乏は忘れ得ても、絵は忘れられなかつたのである。貧乏なんか結局どうでもよかつたのであらう。」(作品社刊、奥本大三郎編『日本の名随筆 別巻34 蒐集』所収、柳宗悦「蒐集物語 上篇」より)
レンブラントが買い集めたのは、絵画だけではなかった。彼が、妻サスキアの死後も放蕩を続け、借金で首が回らなくなり、とうとう財産譲渡すなわち債務者であるレンブラントの資産をすべて現金化し債権者への弁済に充てるという措置が取られた際の財産目録には、彫刻や鉱物、標本、遠くインドの衣装や日本の兜、日本刀などといったものまであったということだ。破産後(正確にいうと破産ではないのだが)のレンブラントは、柳宗悦の時代にあっては不遇とされていたのかもしれないが、現在では、破産後も画家としての名声は高く、作品も意欲的に制作していたということが知られている。けれども、晩年の暮らしぶりは極めて質素なものであったのは間違いのないところだ。
レンブラントの例はかなり極端で病気にも近い印象を受けるが、趣味に没頭するあまり、日頃の生活を顧みないというひとは、古今東西相当数に及ぶのではないだろうか。様々な趣味への熱狂は、それを満たしてくれるものがなければ成立しない。当たり前の需要と供給の話である。
武装関係の店の並びにはアイドル系やゲームの店。手前には丼ものとうどんを出す店、といろいろな趣味の店が混在する秋葉原(食べ物は趣味とはまた違うが)。
秋葉原は、趣味の街である。アニメ、マンガ、ゲーム、同人誌、コスプレ、アイドル、フィギュア、トレカ、メイドカフェ、ミリタリー……現在の秋葉原を歩くと、こうした趣味を持ったひとびとを満たしてくれる店が圧倒的に多い。こうした状態になったのは2000年代に入ってからだろうか。「アキバ」の名称が一般に浸透したのもこの頃である。バスケットコートがあったことでも知られる駅前広場(神田青果市場跡地)が2001年、再開発のために閉鎖され、2005年には「ヨドバシカメラ」の大型店舗がつくばエクスプレス秋葉原駅開業に合わせてオープン。翌年、閉鎖されていた駅前広場が「秋葉原クロスフィールド」(秋葉原ダイビルと秋葉原UDXからなる、オフィスや産学連携フロア、ギャラリー、シアターなどを擁する複合施設)として生まれ変わり、2010年には、1951年から駅直結の立地にあった「アキハバラデパート」の跡地に「アトレ秋葉原1」が出来た。こうした駅周辺の再開発は、現在も引き続き行われており、至る所に工事の仮囲いを見ることが出来る。
秋葉原クロスフィールドから程近い場所にも、このように雑多な風景が残っている。「ニュー秋葉原センター」は古くからあるパーツ専門店の集合体。
鉄道、都電という交通の便があった秋葉原あたりは、元々は卸売り業が栄え、1935年には、神田青果市場が置かれた。1933年に広瀬商会(ラジオパーツの専門問屋)、山際電気商会(ラジオセットの販売)が外神田に店を構えるも、「電気の街」というイメージ(と実態)は、戦後を待たねばならない。
1945年3月の東京大空襲により、秋葉原一帯も焼け野原となった。終戦後は、闇市の賑わいと同時に、戦前から営業していた幾つかの電気関連の店が再開し、また新たに店を構えるものもあった。これらの多くは、中央通りに沿って出店していた。こうした正規の店以外に、重要な役割を果したのが露天商である。戦後の混乱期、秋葉原からやや南西にあたる神田小川町から神田須田町にかけての地域にて商いをしていた露天商の多くが取扱っていたのは、真空管や組み立てたラジオであった(これには現在の東京電機大学、当時の電機工業専門学校の存在も大きい)。折からのラジオ人気で需要が高まっていたなか、これらの露天商は活況を呈していたが、1949年、GHQが道路拡張のために露店撤廃令を施行。これにより、須田町界隈の露天商は立ち退きを余儀なくされるが、代替の場所を要求し、それを受けて提供されたのが、秋葉原駅のガード下であった。ラジオセンターや東京ラジオデパート、秋葉原電波会館といった、小さな店舗の集合体は、須田町からの移転組で成り立っているのである。斯くして、現在の「電気街」の基礎は作られたのだった。
戦後しばらくはラジオが人気商品だった秋葉原は、その後「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の販売台数を大きく伸ばし、それに伴い店舗も大型化してゆく。
「秋葉原ラジオセンター」の一部。ここは、宗旨替えせずパーツ類を売っている店が多い。小さな店が迷宮のようにひしめき合っていて、かつての秋葉原を思わせる。
1955年に始まる高度経済成長期は、ひとびとの暮らしを豊かにした、と言われるが、果たして「豊か」とはどういうことだろう? それまでは、生活をしてゆくことが第一だった。暮らし方どうこう、という精神的、物質的余裕というものを持つことが難しかった。それが好景気に支えられた「電化」「自動化」の結果、ただ生活するという以外の「時間」が出来た、ということである。出来た「時間」は、生産的な行為に費やされるのではなく「余暇」として、家族の団らんやレジャー、趣味に割り振られるようになる。高度経済成長期における秋葉原で売上げを伸ばしたのは、先の「三種の神器」はもちろん、それに続いて登場したカラーテレビやクーラー、電気炊飯器、トースターなどであった。電気洗濯機で洗濯したり、電気炊飯器でお米を炊いている間は、ほかのことが出来る。毎日買物に出なくても電気冷蔵庫があれば保存が効く。余った時間は一家でテレビ鑑賞に興じる。テレビでは、アメリカのホームドラマが放映され、暮らし方のお手本になった。テレビのなかの憧れのライフスタイルを実現するためには、家電は必要不可欠だったのである。
戦後の混乱期から抜け出し、ある程度ひとびとの生活が豊かになった頃、オーディオに注目が集まるようになった。秋葉原でも、家電のほか、オーディオ類を扱う店が増え、それまで以上に趣味性の高いものも提供する街へと変っていったのである。1970年代中盤になると、当時の若者が購買層に加わり、オーディオ類は飛躍的な伸びを見せ、80年代に入るとビデオデッキが普及。またPC時代の到来を予見させるマイコンショップが登場し、パーツ屋でもトランジスタから電子パーツを取扱いの中心にする店が増えてくる。いわゆる「ジャンクショップ」や、ファミコンの普及からゲームソフトの店が出てくるのもこの頃だ。バブル期での家電類の買い替え需要(大型化、高級化)もあり、90年代前半あたりまでは、家電と趣味性の高いものが共存してゆくわけだが、ディスカウントストアの登場と、後のインターネット時代のECの一般化に伴い、家電の存在感は次第に薄れ、PC関連の売上げが伸びていった。また、ファミコン時代からのゲームソフトは、プレイステーション用のCD-ROMへと取って代わり、結果としてゲームとアニメを繋げるようなファン層を獲得することに成功した。2000年代の動向は、冒頭に記した通りである。
中央通りから裏手に入ると、このようなジャンクショップがいまだに見られる。ぱっと見で売っているものが分かる店もあれば、ここのように何を売ってるのか見当がつかない店も。
生活を便利にする家電から、より趣味性の高いものへ。秋葉原の歴史を辿ると、端的にこのように表現出来る。本来は、生活のゆとり部分を占めるはずの趣味が、生活を飲み込んでしまった。だから、この街にはどことなく非現実感が漂うのかもしれない。かつては、家電を通じて豊かな暮らしを夢見たわたしたちは、今や趣味だけで夢見心地になる。その夢見心地から戻れなくなってしまったひとびともたくさんいて、そうしたひとたちはオタクと呼ばれた。
そんな趣味の街・秋葉原ではあるが、最近では旧万世橋駅の高架橋をそのまま活かした商業施設「mAAch ecute神田万世橋」が出来て、日々の生活に目を向けるような取り組みも見られるようになっているのは興味深い。ここは「フクモリ」の二号店をはじめ、ヴィンテージ家具やコーヒーショップなど洒落た佇まいの店が軒を連ねる一方で、古くからの地域資源のひとつである鉄道(鉄道の便に恵まれていなかったら、秋葉原はここまでの発展はなかったであろう)にフォーカスした、趣味の領域に踏み込んだ展示や物販(期間限定だが)があり、どっぷり暮らしでもどっぷり趣味でもない、その間を繋いでゆくようなバランスのよい内容になっている。
かつては鉄道博物館(後に交通博物館)としても使われていた、旧万世橋駅高架橋の「mAAch ecute神田万世橋」。画面左手の万世橋の下には神田川が流れる。
こうしたバランスのよい店や施設ばかりになってしまうことはまずないだろうが(なってしまっては面白くない)、「mAAch ecute神田万世橋」はアキバ・ビギナーにとっては、秋葉原を訪れるいいきっかけになってくれそうである。ここからディープな世界で夢を見るもよし、ちょっと足を伸ばして神田明神にお参りするのもよし。そうそう、神田明神には「IT情報安全守護」なるお守りも売っているのだった。
秋葉原から思いのほか近くにある神田明神。鎮座して1300年近くという長い歴史を持ち、江戸時代には「江戸総鎮守」として、江戸のすべてを守護していたとか。
昆虫、お面、新聞錦絵、レコード、マッチ……さまざまなものを集めてしまう、蒐集に関するアンソロジー。引用した柳宗悦のほか、柳田國男、金田一京助、小林秀雄らの随筆を収録している。/日本の名随筆 別巻34 蒐集』奥本大三郎(編)作品社刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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