西高島平~成増―美術館から幻のユートピアへ│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

Writer

青野賢一

#025

西高島平~成増―美術館から幻のユートピアへ

2014-10-06 12:43:00

自分の住む区や街でも行ったことがないところがたくさんあって、きっとその幾つかはずっと行かないままに違いない。そんなことだから、区外など訪れたことがないところばかり。西高島平から成増に至る道のりもそうだ。
西高島平、成増はどちらも板橋区にある。西高島平は都営地下鉄三田線、成増は東武東上線と東京メトロ有楽町線および副都心線の駅名で、成増は町名にもなっている。9月より開催されている展覧会「20世紀検証シリーズ No.4 種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」の会場が板橋区立美術館であったことから、今回はこの地を歩いてみることにした。

てっきりJR板橋駅あるいは都営地下鉄板橋本町駅あたりにあるものと思っていた板橋区立美術館は、調べてみると板橋区赤塚という住所だった。最寄り駅は西高島平駅か東京メトロ下赤塚駅とある。それぞれ徒歩13分、25分ということだったので、所要時間の短い、つまり最も近い方の駅である西高島平駅から向かうことにした。
都営三田線の終点、西高島平駅の二駅前に高島平駅がある。マンモス団地群として知られる高島平団地のある駅だ。高島平団地の建設計画は1956年(昭和31年)に遡る。それまでは徳丸ヶ原と呼ばれる農地で、都内でも有数の水田地帯だったが、都心部への人口集中の受け皿の必要性、また都市化により稲作を行う環境に適さなくなってきたことに伴い、巨大団地群建設へと舵が切られた。かくして総戸数1万戸以上という高島平団地は完成し、1972年(昭和47年)から入居を開始。翌年3月の第五次で入居が完了した。板橋区公式ホームページで公開している電子公文書によれば、この最初の一年でおよそ1万世帯、2万9000人が入居したということである。ちなみに高島平という地名が使われ出したのは1969年(昭和44年)。この地で日本初の洋式砲術の公開演習を行った幕末の砲術家・高島秋帆に由来するものだ。
三田線は、志村坂上駅から地上に出るので高島平団地の姿も見ることが出来る。高島平駅で団地住民と思しき乗客が下車すると、車内はがらんとしてしまった。そうして到着した西高島平駅の改札を抜けると、さらにがらんとしていた。いわゆる駅前のイメージを形作るようなものは何もなく、目に入るものといえば首都高速の高架と高島平緑地公園の木々だけ。運良く一台だけ停車していたタクシーに乗り込み、わたしは板橋区立美術館を目指した。

image2 西高島平駅からの景色。駅近隣には、板橋トラックターミナルや中央卸売市場板橋市場、東京都水道局三園浄水場などがある。新大宮バイパスを北上し、荒川を越えたら埼玉県だ。

日没時間が確実に早まっていることを感じる初秋の午後3時頃、美術館に到着する。すぐ脇には赤塚溜池公園、背後には赤塚城址が控える、緑に囲まれた立地だ。入口には展示内容を示す看板。カール・コーラップ《頭》とカール・ハイデルバッハ《二体の人形》がデザインに組み込まれている。展示室は階段を上った二階にあり、チケットを買い求めて順路に従い巡った。
種村季弘(1933-2004)はザッヘル・マゾッホやグスタフ・ルネ・ホッケの翻訳者としても知られるドイツ文学者だが、その仕事の範囲はとてつもなく広範だ。吸血鬼、悪魔、錬金術、詐欺師、贋物といったことを直感的嗅覚とそれを裏付ける膨大な知識量でもって様々な事象に接続する論考。映画、小説、演劇、舞踏、そして美術の評論。晩年には温泉探訪や街歩きを装いながら読者を知的迷宮へと誘い込む痛快なエッセイを多数発表した。総じてマージナルなもの、またそこに転がる断片を錬金術師さながら別の次元のものへと変容させるその文章には、わたしも多大な影響を受けていることを、ここに告白せずにはおけない。
この展覧会は、種村が愛した美術および作家に焦点を当て、全7章で構成されている。ゾンネンシュターン、ホルスト・ヤンセンといった、これぞ種村といった作家の作品から、四谷シモン、秋山祐徳太子の近作、「暗黒舞踏」土方巽の公演の映像など、種村と親交の深かった芸術家による作品も多数出展されている。初公開作品も多いということなので、ご興味ある方は足を運んでみてはいかがだろうか。

image3 板橋区立美術館の外観。建物の右手奥には赤塚城址がある。道を挟んで向かい側には手作り感満載のソフトクリームスタンドが。展覧会「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」は10月19日(日)まで開催中。

ゆっくりと館内を観てまわった後、美術館を出て、まず赤塚溜池公園へ。1968年(昭和43年)開園のこぢんまりとした長閑な公園だ。その名の通り中央にはかつて農業用水を貯めていた溜池があり、釣り糸を垂れるひとも多数。一体、何が釣れるのだろうか。そのすぐ横には「板橋区立郷土資料館」。文字通り、板橋区の歴史を史料や出土品、写真、図版を用いて伝えている施設だ。入口付近には個人蔵の大砲(高島秋帆とは直接関係はなく、船についていたものとのこと)、藁葺屋根の古民家、そして板橋宿にあった遊郭「新藤楼」の門が移築され、かつて板橋が宿場町、花街であったことを偲ばせる。ここから、美術館の裏手にあたる赤塚城址へと歩みを進めた。
小高い丘の雑木林を通り頂上に出て、きれいに整備された梅林を抜けると、原っぱになっている。ここが赤塚城の本丸だったところだ。決して大きいとはいえない石碑と説明板がある程度で、あとは特に何もない。1456年(康正2年)に、太田道灌とともにこのあたりを平定した千葉自胤の居城が赤塚城。このときに築城されたという説もあれば、室町時代からあったという説もあり、色々と謎の多い城のようである。
小高い丘、と書いたがこの丘の東西は深い谷の様相を呈している。美術館前の道路は蛇行し、勾配もきつい。通りに出て少し南に進むと左手に「不動の滝」というのがあって、今も少量ながら水が湧き出ている。かつて赤塚城址の谷には川が流れていたのだろうことを想像させるものだ。

image4 赤塚城址の本丸は、ご覧のように見事な原っぱ。ここに至るまでには梅林があり、時期になると「赤塚梅祭り」も開催されているそう。南側には栗の木もあり、訪れたときには早くも実が落ちていた。

美術館周辺には、1981年(昭和56年)に開園した「赤塚植物園」や、板橋十景のひとつとしてつとに有名な「東京大仏」を擁する乗蓮寺もあるのだが、ゆっくりしていたせいでどこも閉園時間を過ぎてしまい、なかに入ることは出来なかった。東京大仏は、奈良、鎌倉に次ぐ三番目に大きな大仏だそうで、通りから頭の一部だけ見ることが出来た。
だんだんと歩く影が長くなり、夕方が近づいて来て、空腹も同時に訪れたがあいにくこのあたりにはめぼしい飲食店はない。さてどうすると思いながら歩いていたら「松月院」の文字が見えた。正直に言うと、この手前に蕎麦屋があって、そこがやっているかどうか確かめるために近づいて「松月院」を見つけたのだが(残念ながら蕎麦屋は閉まっていた)。
江戸時代、将軍家から寺領40石を与えられた由緒ある寺院である松月院は、先に記した洋式砲術の高島秋帆が公開演習の際に本陣を組んだところでもあり、境内にはそれを記念した顕彰碑がそびえ立っている。碑といえばもうひとつ、この松月院のすぐそばには「怪談 乳房榎記念碑」がある。三遊亭円朝の傑作「怪談 乳房榎」にちなんだもので、かつては松月院境内にあったということだ。

image5 落ち着いた佇まいの「松月院」本堂。赤塚城の千葉自胤はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進した。また徳川家康が朱印地を寄進したことに倣い歴代将軍が朱印状を下付し、それらは寺宝として秘蔵されている。

高島秋帆が公開演習を行った後、オランダに留学して大砲、火薬について学んだ幕臣・澤太郎左衛門が火薬製造機をオランダから搬入。明治維新を挟んで火薬製造機は明治政府に引き渡された。1876年(明治9年)加賀下屋敷跡に陸軍砲兵本廠板橋属廠(りくぐんほうへいほんしょういたばしぞくしょう。明治12年には東京砲兵本廠板橋火薬製造所に改称)が完成する。加賀下屋敷というのは、現在の加賀一丁目、二丁目と板橋三丁目、四丁目に跨がる広大な敷地を誇る加賀前田家の屋敷。明治に入るとこの跡地を火薬製造工場として使うようになったということである。以来、終戦まで板橋区は軍需産業の工場が集積し、とりわけ光学兵器産業が発展していった。戦後、火薬製造工場は解体されたが、光学関連の工場は光学・精密機器製造へ転換し、現在も板橋区の主要な産業となっているという。

image6 松月院本堂近くにそそり立つ高島秋帆顕彰碑。出島・長崎で育った秋帆は、出島のオランダ人を通じて洋式砲術を学び、高島式砲術を完成させる。以来、板橋は砲術や火薬製造工場に縁のある土地となった。

松月院を出たところでタイミングよく成増駅行きのバスが来た。車窓からの景色は郊外の住宅地といった風情だが、地形に変化があって面白い。程なくしてバスは東武東上線成増駅北口に到着した。北口から南口に出るためには、駅を通り抜けてゆく必要がある。結構な段数の階段を上り、陸橋から駅を通ると、南口には下りる階段がない。それほど駅のあちらとこちらで高低差があるのだった。印象としては、南口の方が何というか庶民的な風情がある。駅前にある「スキップ村」は、取立てて古い店があるというわけではなく、外食チェーン店やスーパー、パチンコ屋などが並ぶどちらかというと没個性な商店街だが、夕方の買物時だからだろうか活気があった。スキップ村の端まで歩くと川越街道に出る。日暮れも近づき、さてどうするかと周りに目をやると、川越街道の向こう側に商店街の入口らしきものが見えたので、何の気無しにそちらへ足を向けてみた。「兎月園(とげつえん)通り商店会」とあるその道には、個人経営の小さな店が数軒点在している。先程のスキップ村とは異なり、どこか寂しい雰囲気だったが、少し脇道に逸れるとスナックやパブが思い掛けずたくさんあることに気づいた。かつては賑やかな歓楽街だったのだろう、ひょってして花街だったのか? などと考えながら兎月園通り周辺を巡って、西高島平から成増の旅(ちょっとした小旅行のようだった!)は終った。

image7 東武東上線成増駅北口の陸橋の上から駅を臨む。北口は「SEIYU」の大型店舗が存在感を放っているが、画面左手に進んで南口に出ると商店街になっており賑やかだ。東京メトロの成増駅へは少し歩く必要がある。

帰宅後、兎月園通り商店会が気になって調べてみたところ、1921年(大正10年)もしくは1924年(大正13年)から1943年(昭和18年)までの期間、「兎月園」なるものがこの辺り(最寄りは成増駅だが住所は練馬区旭町)に存在していたことが分かった。東武鉄道の創始者・根津嘉一郎の要請と協力により、貿易商だった花岡知爾(ともちか)が始めた約1万坪という広大な敷地を誇る会員制農園「成増農園」がその大元である。主に華族などの富裕層に区画を貸し出し賑わいを見せたが、畑ばかりで休憩所すらない。そこで茶屋が設けられ、発展していったのが兎月園だ。最盛期には、自然の景観を生かしながら、料亭、茶屋、小規模の動物園、映画館、浴場、運動場、テニスコートまでが作られ、兎月園は東京の一大行楽地として名を馳せたという。何という人工のユートピア! 創設者である花岡知爾は平和主義者だったそうで、兎月園は、そうした個人の資質と大正時代の自由闊達な空気が渾然一体となって出来たものと考えてよさそうである。本格化する第二次世界大戦により利用者が激減した兎月園は、終戦を待たずに閉園することとなった。板橋区の軍需産業が終戦を境に平和産業に移行し生きながらえたことと実に対照的である。

image8 川越街道から南側に入ってゆく「兎月園商店会通り」から少し脇に逸れると、パブやスナックのネオンが輝く。この辺りはちょうど板橋区と練馬区の境だが、どこか東京とは思えない風情が漂っている。

*兎月園に関しては一次資料がほとんどないそうで諸説入り混じっているが、板橋と練馬のタウン誌『月刊光が丘』(1997年より『Kacce』)1992年10月号に掲載された記事「幻の兎月園を探る」を参照した。なお、同記事は現在PDFにて閲覧可能なので、興味を持った方はご覧いただけたらと思う。



板橋区立美術館の展覧会の図録。展示内容に沿って130点もの図版を収録している。会場に足を運んだ方は記憶を反芻し、行けなかった方は実物のイメージを膨らませてみては。種村季弘関連では、単行本未収録論集『詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の綺想』が幻戯書房より7月に発売された。/『種村季弘の眼 迷宮の美術家たち』柿沼裕朋(著)平凡社刊

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BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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