ハッピーバレー競馬場│西山繭子の「女子力って何ですか?」

西山繭子の「女子力って何ですか?」

Writer

西山繭子

#245

ハッピーバレー競馬場

2024-06-24 10:42:00

 東京都知事選が行われるたび、東京には変人しか暮らしていないのだろうかと不安になりますが、今回はこれまでの比ではありません。掲示されたポスターを眺めながら消去法をしていくと『そして誰もいなくなった』になってしまうのですが、それでも投票には行かねばなりません。少しでもまともな社会にするために。頑張ろう、東京。
 前回のカジノに引き続き、今回は競馬のお話です。マカオから戻った私は、その足で競馬場へと向かいました。銅羅灣からほど近い高級住宅街にあるハッピーバレー競馬場は高層ビルの谷間にあり、香港らしさ満点のシチュエーション。青々とした芝生は、先ほどまで降っていた雨でキラキラと光り輝いています。スタンドの前にはたくさんのフードショップが並んでおり、まるでビアガーデンのよう。屋外でお酒を飲むことをこよなく愛する欧米系金融マンたちが、わいわいと楽しそうに談笑していました。ひと昔前まで、競馬場というとガラが悪いイメージがありましたが、今はそんなことはないようだわと思いながら馬券売り場に行くと、ごりごりの和彫りが入った激昂しているおじさんや、全身軍服を身に纏ったおじさんなどがいて、今も昔も、ヤバい人はいるのだなとほっこりしました。近くにいた係員のお姉さんに馬券の購入方法を教えてもらいます。色んな賭け方がありますが、カジノでの「大小」同様難しいことはせずに「獨贏(ドクイェン)」という1着の馬だけを当てる単勝を1口、最低額の20HKドルで購入しました。名前だけで決めた『DORAGON PRIDE』の単勝オッズは96倍。馬券を握りしめ、スタンドからコースを見下ろします。これまで日本で何度か競馬場に足を運んだことはありますが、夜空の下を駆け抜ける馬たちを見るのは初めてのこと。人々の歓声のなかゴールを目指して走る馬たちのその美しさたるや。しかし我が馬は出走馬12頭中10位という結果に。やはり順当なのですね。今宵は5レースだけやろうと決めていた私、1レースぐらいは喜びたいなと思い、次のレースでは手堅く1番人気の馬に賭けました。すると見事に的中!わーい!わーい!あぶく銭は使うぞー!ってことで、グラスシャンパンを購入。香港の夜空の下で味わう勝利の美酒。最高じゃないか。ちなみにこのレース、オッズは1.9倍だったため払戻金は38HKドル。グラスシャンパンは90HKドルです。プラマイでいうと完全にマイ!でも楽しければ良いのです。味をしめた私は、次もその次のレースも手堅く1番人気の馬に賭けましたが、惜しくも2位だったりと馬券は紙クズに。それでもレースの合間にショーがあったり、ハッピーバレー競馬場はその名の通り、いるだけでハッピーな場所であります。そして最後のレース。ここは直感でいくべしと、オッズは無視して日本語に目を引かれた『MIDORI GLORY』という馬に賭けることにしました。掛け金はもちろん最低額の20HKドル。レースが始まる前、お手洗いに行くとほろ酔い良い気分の若者たちが鏡前でメイクを直しながらはしゃいでいました。洗面台はびしょびしょ。ゴミはその辺にポイ。公共の場所を綺麗に使うという心がけはゼロであります。「えくすきゅーずみい」おしゃべりに興じるギャルたちの隙間をぬうようにして手を洗い、ふと顔をあげると、そこでせっせと掃除をしているおばあさんがいることに気がつきました。足を少し引きずるようにして歩くおばあさんは、洗面台の水滴を黙々と拭き、個室にトイレットペーパーを補充していきます。28年前、香港の高級レストランでトイレに行った際、中に入ると掃除係のおばさんがいました。何も知らずに手ぶらだった私は戸惑い、狼狽え、用を足さずに席に戻りました。あまりに早く戻ってきた娘の様子を見て、父はすぐに状況を察したようで「早く行ってきなさい」と私にお金を渡しました。そういうことにすぐ気づく人なんだよなあ。そんなことを思い出しながら、いったんトイレをあとにした私でしたが、何だか心がもやもや。おばあさんの姿が頭から離れません。トイレを使っていたほとんどの人にとって、おばあさんは存在していないかのようでした。それが可哀そうだったとかそういうことではなく、いつだって誰かが私なのだと思ったのです。私はすぐに踵を返してトイレに戻り、おばあさんにチップを渡しました。おばあさんは少しだけ驚いた様子を見せてから、にっこりと笑って「多謝(ドーゼー)」と何度も繰り返しました。私は日本語で「いえいえ、こちらこそお掃除していただいてありがとうございます」と、二人でぺこぺこ。さすがハッピーバレー。トイレもハッピーです。そして迎えた最後のレース。コースの最前列で柵にかじりつきながら「まくれー!させー!」と自分が賭けている馬がどこにいるかもわからずに、とりあえずそれらしいことを叫んでみます。疾風のごとく目の前を駆け抜けゴールした馬たち。これを見られただけでも競馬場に来て良かったなあと思いながら、電光掲示板を見ると1着はなんとMIDORI GROLY。オッズは11倍。その瞬間、喜びよりも最初に感じたのは納得感でした。「お金ってこうやって回るのなのだなあ」と妙にすとんと心に落ちる感じ。先ほどのおばあさんの笑顔が頭に過ります。帰り道、払戻金を手にした私は、空車待ちのタクシーではなく片道3HKドルのトラムに乗り込みました。2階席の窓から入ってくる香港の夜風が私の頬をゆるりと撫でます。その心地良さに優しい気持ちになりながらも、心のどこかで「100HKドル賭けていればなあ」と悔いている自分は、本当にどうしようもないなと思うのです。

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2024.6.24 配信

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西山繭子さんINFORMATION

日本の女優、作家。東京都出身。
大学在学中の1997年、UHA味覚糖「おさつどきっ」のCMでデビュー。
テレビドラマを始め、女優として活動。
最近は小説やテレビドラマの脚本執筆など、活動の幅を広げている。
著書に『色鉛筆専門店』『しょーとほーぷ』『ワクちん』『バンクーバーの朝日』などがある。

オフィシャルサイト→FLaMme official website