目黒・行人坂、権之助坂―お城と寺と坂道と
2013-10-22 13:56:00
円本、円タクは聞いたことがあるという方も多いかと思うが、「円宿」という名前をご存知の方はさほど多くないのではないだろうか。『性欲の研究 エロティック・アジア』(平凡社刊)によれば、1930年代には、この円宿(正確には円宿ホテル)が出現したそうだ。円宿ホテルとは、「お泊まり・ご休憩各一円均一」という旅館やホテルのことで、現在のラブホテルの元とされているものである。大阪を発祥の地とする説と、上海起源説とがあるということだそうだが、いずれにせよ1930年代の日本には結構な数の円宿ホテルがあった。時代としては、ちょうどモボ・モガが登場する頃と思っていただければ分かりやすい。第二次世界大戦を挟んで、連れ込み旅館が増加し、朝鮮戦争の頃には、日本駐留のアメリカ兵や、労働力として都市部に流入してきたひとびと(主に独身者だったであろう)を相手にした連れ込み旅館も多くなってくる。1964年の東京オリンピックを契機に、ラブホテルは急増し(おそらく連れ込み旅館から近代的なラブホテルに改築したところもある)、1969年には、ラブホテルの呼称の由来とされている「ホテル・ラブ」が東大阪市に開業した。こうしたラブホテルの歴史のなかでも、とりわけ有名なホテルのひとつが「目黒エンペラー」だ。
現在の「目黒エンペラー」。外観は開業当時のままである。起伏の激しい土地であるこのあたりにあって、どこから見ても目立つ建物だ。
目黒エンペラーの開業は1973年。高度経済成長期が終わり、安定成長期へと入ってゆくタイミングである。お城を模した外観と、それぞれの客室に施された凝った造作や仕掛けが話題になり、この後のラブホテルのトレンドに多大な影響を及ぼしたことでも知られている。奇抜な見た目、派手なネオンなど、それまでの連れ込み旅館になかった要素がラブホテルにはあった。湿っぽい日本家屋から乾燥したホテルへ、小規模から大規模へ、単一の機能から複合アミューズメントパーク化へ、という流れは、その後の日本における時代のムードを先取りしていたといえるかもしれない。テレビや雑誌といったメディアがこのホテルをこぞって取り上げ、ブームを煽った。
このお城のようなホテルは、目黒川沿いにある。目黒駅西口から勾配のきつい「行人坂」を通り、目黒川に架かる「太鼓橋」を渡って右に折れたあたりだ。行人坂は、かつては江戸市中から目黒不動に通じる重要な道であった。坂の名前は、中腹にある「大円寺」に由来する。寛永年間(1624年ー1644年)、このあたりで幅を利かせていた悪人を放逐すべく、幕府は奥州・湯殿山から高僧行人・大海法印を観請して寺を開いた。法師が首尾よく悪人を退治した功績により、寺には「大円寺」の寺号が与えられ、修業のための行人たちが近隣に多く住むようになったことから、この坂の名前がついたそうである。昔は坂の中腹に「富士見茶屋」という茶店があり、ここから眺める富士山は格別であったことが『江戸名所図会』にも記されている。
国や都、区の重要文化財を多数擁する「大円寺」。正面本堂には大黒天を祀っており、「山手七福神」のうちのひとつとしても知られている。
大円寺は、1772年の「明和の大火」の火元になった寺でもある。行人坂火事とも呼ばれるこの火事は放火によるもので、麻布、京橋、日本橋方面にも火の手が及び、1万5000人もの死者を出した。このため、長らくのあいだ幕府から許可が下りなかったが、1848年、ようやく再建となった。境内にある石造五百羅漢像は、この大火の犠牲者を供養するものとして作られたそうである。本尊は釈迦如来像であるが、この釈迦如来像は、鎌倉時代初期の京都・清涼寺(嵯峨釈迦堂)と同様「生身(しょうじん)」の釈迦像で、胎内には五臓六腑があるという。
大円寺境内にある石造五百羅漢像。表情豊かな像は50年もの歳月をかけて作られたそう。文字通り溶けてしまったような「とろけ地蔵尊」は、悩みを溶かしてくれる。
太鼓橋のところから目黒エンペラー前を過ぎると、「目黒新橋」だ。アーチ型構造のこの橋、最初に架けられたのは江戸時代のはじめで、1933年(昭和8年)頃に現在の姿になったということであり(その後、何度か補修は行われている)、なるほどモダンな佇まいであるのも頷ける。そのまま目黒川沿いに行けば、目黒区美術館や目黒区民センターがあり、区民の憩いの場として機能している。目黒新橋から目黒通りを駅方面に向かうと、途中で二股に分かれる。右手に行けば「権之助坂」だ。
アーチ型がモダンな「目黒新橋」。橋の脇には、スナックなど昭和風情が漂う飲食店ばかり入居したマンションがある。
勾配のきつい行人坂よりもやや緩やかな権之助坂は、江戸時代には「新坂」と呼ばれていた。坂の名前の由来はふたつあるが、どちらにも菅沼権之助という名主が関係している。ひとつは、この権之助が村人の年貢米軽減を陳情したところ、お上から罪に問われ、村人の「助けてほしい」という願いも聞き入れられずに処刑されるという話だ。処刑前に我が家を一目見たい、という権之助は新坂の上から田道の自宅を眺め、喜んだという。その落ち着いた態度と、村への献身から、最後に振り返った新坂を「権之助坂」と呼ぶようになった。もうひとつは、急勾配のため、行き来が大変な行人坂のバイパスとして、新坂を整備したという話である。こちらの説でも、お上に無許可で整備したため、菅沼権之助は処刑されている。
目黒区公式ホームページによれば、明治時代に入って鉄道が敷かれると、権之助坂が通行の中心になっていき、戦後の露店の発展形として商店街が形成された。権之助坂商店街は地域密着型というか、妙な町おこしに走らず昔ながらの雰囲気を残している。現在ではビルになってしまっているところも多いが、いくつかの店舗は、二階建てのこぢんまりとした建物のまま営業を続けているということも、そうした雰囲気を醸し出すのに一役買っているのだろう。目黒は寺社はたくさんあるのだが、いわゆるランドマーク的な存在の施設や建物がない。そのことが、渋谷から山手線で2駅しか離れていないのに、どこか庶民的なムードを感じさせるのではないだろうか。
このように、ビルにせず二階建ての状態で営業している店舗も見られる「権之助坂商店街」。公式ホームページによれば8割が飲食店だそうだ。
駅ビル「アトレ目黒」や駅至近の「アトレ目黒2」(JR東急目黒ビル)など、都内の他の駅と同じような商業施設はあるものの、そこから少し離れれば昔からの商店街や寺、神社がある目黒。のんびりとした空気が流れるここに、なぜ目黒エンペラーが建てられたのだろうか? 繁華街からさほど遠くないわりに、来街者の数が(繁華街に比べれば)少なく人目につきにくいという理由は考えられるが、さてどうだろう。この目黒エンペラー、先に記したようにメディアにたくさん取り上げられたおかげで、最盛期は随分と繁盛していた。ランドマークのないこの街のランドマーク的存在になってしまったのである。そのせいで、利用はしないけれども物見遊山で近くまで来るひとも増えただろうから、利用者としてはなかなか大変だったのではないだろうか。
ラブホテルのトレンドは、その後「ポスト・モダン的」な、シンプルな造作へと移り、目黒エンペラーのような大袈裟なラブホテルは最早流行遅れとなってしまう。バブルが弾ける少し前の1989年、目黒エンペラーはラブホテルとしての営業を一旦終えた(現在は再びホテル営業をしている)。
行人坂の途中にある大円寺には、西運の墓がある。西運は、大円寺の隣の明王院に住まい、行人坂の修築などを行ったという人物である。出家前の名前は吉三(井原西鶴『好色五人女』では吉三郎)。あの「八百屋お七」が恋い焦がれた男だ。お七の処刑後、僧となった吉三はお七の菩提を弔うために、浅草観音まで往復十里(約40km)の道のりを夜から朝にかけて隔夜日参りする。その行は一万日であり、これを27年5ヵ月かけて成し遂げたそうである。行を成し遂げた後、お七が夢枕に立ち、成仏したことを知ると、「お七地蔵尊」を造り、手厚く祀った。そう、目黒にはこんな恋物語もあったのだ。現世では悲恋だったかもしれないが、成仏したお七はきっとあの世で吉三と再会出来ただろう。大円寺から程近いところに、束の間の愛を交わす目黒エンペラーが建てられたことは、そう考えるとなかなか興味深い。大円寺から目黒エンペラーに向かう太鼓橋も、今とは姿が違うとはいえ、西運の手になるものである。
太鼓橋から目黒新橋方面を臨む。川の横は遊歩道になっており、四季折々の風景を歩きながら楽しむことが出来る。写真左手には「目黒エンペラー」。
東アジア近代(含む日本)の、性に関する歴史をマジメに研究した一冊。仏文学者・鹿島茂と編者・井上章一の対談では「性の東西交流」が語られ、ヨーロッパとアジアの性的な関連を知ることが出来る。/『性欲の研究―エロティック・アジア』井上章一(編)平凡社刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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