日比谷公園―洋食とカフェ、昭和の面影
2013-12-18 10:18:00
「一名です。食事は出来ますか?」「はい。えぇっと、寒いですから店内のお席がよろしいですね。こちらでいかがでしょう?」
こうして案内された窓際のテーブル席からテラスを眺めると、女性ばかり20名程のグループが、ブランケットに包まってお茶を飲みながら談笑している。年齢にかなりばらつきがあるので習い事か何かの集まりだろうか。店内に目を移すと、家族連れ、女性ふたり組、もう定年を迎えたであろう男女4人組などで、ほぼ満席。日曜日の15時過ぎである。
内田百閒『御馳走帖』のなかに「芥子飯」という話がある。手持ちの金が10銭しかないが、腹は減る。と、小石川駕籠町(現在の文京区本駒込2丁目、都営三田線千石駅周辺)にある交差点のカフェーの前に「自慢ライスカレー十銭」という立て看板が出ている。そういえば近頃は西洋料理というものを食べていないなぁ、などと思いつつ田端に向かい、用事を済ませ、帰る道すがら昼食をどうしたものかと考えながら歩いていたら再び駕籠町まで来てしまったので、百閒は思い切ってそのカフェーに入ることにした。この時代のカフェーは女給がいて、客の横に付く。ライスカレーだけを注文した百閒は、女給がいたら落ち着いて食えたものではないと気にしながらも、「一匙二匙食ふ内に、女のゐる事なんか気にならない程いい気持になつた。ふうふう云ひながら、額に汗をにじませて、匙を動かした」。食べ終わった百閒は、やはり食べた気がしないと感じ、所持金をすべて使ってしまって、これから歩く道のりを考えてうんざりした、と結んでいるが、この話を読んで、無性にカレーが食べたくなった。しかも昔からやっている店で出す、昔ながらのカレーでなくてはならない。そう思って向かった先が、冒頭に記した店、日比谷公園内に本店を構える「松本楼」である。
松本楼がある日比谷公園は、1903年(明治36年)に開園した、歴史のある公園だ。江戸城の日比谷御門のすぐ傍だったことから、幕末までは松平肥前守らの上屋敷が立ち並んでいたが、明治に入ると一旦更地化され、1871年(明治4年)には陸軍練兵場となる。青山練兵場(現在の明治神宮外苑)が出来たことにより、練兵場としての役割を終えたこの土地は、1888年11月の東京市区改正委員会において、公園としての利用が提案され、翌年5月東京市区改正設計として告示された。日本の公園制度は1873年(明治6年)の太政官布告を以て始まるのだが、東京においては、上野(寛永寺)や芝(増上寺)、浅草(浅草寺)といった、寺社の敷地を公園として利用する計画がまず最初であった。日比谷公園は、都市計画のなかで一から作る公園という、それまでになかった試みによって出来たものなのである。幾つかのプランが提出され、最終的にはドイツで造園を学んだ林学博士・本多静六の案が採用された。着工は1902年(明治35年)、開園は前述の通り1903年であるから、今年で開園110年ということになる。
夕方の「心字池」。写真では分かりにくいが、雪吊りが施してある。画面左手の石垣はおそらく開園当時からのものと思われる。池には鯉が泳ぎ、まわりには太った猫が歩く。
地下鉄日比谷駅を出て有楽門から入って行くと、左手に「心字池」。江戸城の堀を埋め立てる際に埋め残した人工の池だ。園内を歩いてみると分かるが、道が非常に入り組んでいる。正確に言うと、シンメトリカルに整えられた部分と、入り組んだ部分が入り交じっているのが、日比谷公園の特徴である。心字池を左手に見つつ、旧公園資料館のあたりから左に出ると、非常に整然とした佇まいの第一花壇だ。そこから小音楽堂を越えて、大噴水の前まで来ると、その先に第二花壇が広がる。第一花壇から第二花壇の奥、「にれの木広場」そして日比谷公会堂に至るまでの一連の流れは、大変整った作りになっており、この流れの向こう側すなわちテニスコートや草地広場、雲形池、そして大音楽堂(日比谷野外音楽堂)といったエリアは、むしろ起伏に富み、道も複雑なルートを辿っている。1907年の日比谷公園の地図を見ると、現在の第一花壇は既に存在するが、第二花壇と噴水のある場所は運動場。そして、複雑な道のエリアは芝生地や草地という状態であり、この公園が何段階かに分かれて開発されていったことが分かる。
第二花壇の近くの大噴水。主噴水の高さは12mにも及ぶのだとか。夜間にはライトアップされる。ちょうど主噴水の水の上部、画面中央あたりに丸く見えるのは月である。
開園当初の地図にも記されている「松本楼」は、開園と時を同じくして開業したレストランだ。3階建ての洋風な建物と、モダンな西洋料理が評判を呼び、「モボやモガの間では、松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲むのがハイカラな習慣」(日比谷松本楼公式サイトより)となったそうである。現在は1階では当時を偲ばせる手軽な洋食を、3階では本格的なフランス料理を提供するレストランとして営業している。わたしが訪れたのはもちろん1階のグリルである。ここに至るまで、園内をグルグルと歩き回り、身体が随分冷えたのでコーンポタージュ・スープとビーフカレー、食後にコーヒーを注文した。ポタージュは自然な甘みがあり、カレーは洋食屋のカレーのイメージを裏切らない、素朴でオーソドックスな味。やや多めに添えられた福神漬け(赤くない)も程よいアクセントになっている。カレー以外にも、ハヤシライスやハンバーグ、オムレツといった洋食の定番メニューがあり、価格もこなれたものである。
日比谷公園のほぼ真ん中にある「松本楼」。関東大震災、左翼学生による火炎瓶投げつけと、二度にわたり焼失し、現在の建物は三代目である。夏目漱石らの作品にも登場する老舗レストラン。
空腹と寒さが解消されたので、もう少し園内を歩こうと思い、日比谷公会堂の方に向かった。どこかパリっぽい雰囲気の「にれの木広場」を抜けて、公会堂の前まで来てみると、1階の扉の奥に柔らかな光が見えた。傍らには「HIBIYA PUBLIC HALL ARCHIVE CAFE」と書かれた看板があり、日比谷公会堂の歴史資料も閲覧出来るようだ。さっき松本楼でコーヒーを飲んできたところだったが、迷わず入って行った。
日比谷公会堂外観。1929年に開館し、オーケストラやピアノの演奏会などのコンサートホールとして知られていたが、近年は音楽に留まらず多目的ホールとして活用されている。
エントランスから入りすぐにある、広めのエレベーターホールのような空間。突き当たりには、かつてクロークとして使われていた窓口があり、柱にはここでコンサートを行ったピアニストや指揮者の写真、あるいは公会堂の昔の姿を収めた写真などが飾られている。時刻は16時30分。客は自分だけである。「もうおしまいですか?」と訊くと「5時までなんですが、よかったら」と、快く招き入れてくれた。コーヒーを注文し、一番広いソファ席に座ってみる。レトロでモダンな昭和の雰囲気を醸し出す調度品、蓄音機もある。30代だろうか、感じのいい男性がひとりで店を切り盛りしていた。
天井の高い「HIBIYA PUBLIC HALL ARCHIVE CAFE」。昔は大きなファン(プロペラ)が回っていたのだとか。建物、指揮者、音楽家の写真がそこここに飾られている。
あまり遅くなっては迷惑と思い、17時少し前にコーヒーを飲み干して立ち上がると、「あ、もう少しゆっくりしてらして構いませんよ」と、先の男性店員が言ってくれた。「どうですか、蓄音機の音、聴いていきませんか?」。では、と、一言礼を言ってコートを脱ぎ、再びソファに座ろうとすると、「その席より、こちらの席の方がよく聴こえます」と。「なるほど、そうですね」と立ち上がり移動。コーヒーの入っていたカップ&ソーサーと水を店の方が運んでくれようとしたので「あ、もう飲んじゃいました」と言うと「少し前に淹れたのでよければ、どうぞ」とコーヒーを追加してくれた。
通常はCDで音楽を流している様子だったが、運良く蓄音機から流れるタンゴを聴くことが出来た。ボリュームは、針の太さで決まるのだそう。プレイ時は上蓋を閉じる。
録音状態のいいタンゴを聴きながら、話を伺う。このカフェは、当初日比谷公会堂の80周年記念事業として期間限定でオープンし、2010年には一度クローズしたそうだが、閉店を惜しむ声が多かったので2011年から再開したということだった。テーブルの上には、お客さんが書き込むことが出来る雑記帳のようなものがあり、昔を知っているひとが当時の思い出を記したりしている。このほか、GHQ接収当時の話(もちろん彼は知識として知っているのだが)や、お客さんから聞いた昔のエピソードなどを伺ったが、なかでも印象深かったのが、公会堂の前にある木の話だ。公会堂が出来た当初は、木もなく殺風景だったそうだが、その頃に植えたものが大きな木に育ち、それを今こうして見ることが出来るのはいいですね、というような内容の話だった。なるほど、確かに建物だけでなく、木々にもそうした歴史があるということをわたしたちは忘れてしまいがちだ。
結局、案内してもらった席にはほとんど座らず、蓄音機の前で立ち話を30分ほどした。「今日は上でアニメの催しをやっているから、ここを閉めるのもきっちり5時じゃなくて大丈夫なんです」と言っていただいたが、あまり長居も申し訳ないので、手厚く礼を言って辞してきた。なんだか、映画や小説のようだが、本当にあった話である。外に出たら、すっかり暗くなって、街灯には明かりが灯っていた。月がよく見えた。
昭和21年、ザラ紙に針金綴じ、定価20円で出版された『御馳走帖』と、昭和40年に改訂増補して出版された『新稿御馳走帖』に、昭和40年以降の随筆を幾つか加えて編集した一冊。どこから読んでも面白い。/『御馳走帖』内田百閒(著)中公文庫刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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