芝・増上寺―眺めのいい寺│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

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BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#017

芝・増上寺―眺めのいい寺

2014-01-19 18:06:00

ここ数十年、初詣は芝・増上寺と決めている。といっても、増上寺になにかの縁があるわけではない。理由は単純で、ただ眺めがいいからだ。どのように眺めがいいかご存知でない方のために簡単に説明しておくと、増上寺は東京タワーに至近なのである。よって、境内から本堂を臨むと、屋根の向こうにオレンジ色のタワーが顔を覗かせる。こうした境内からの眺めも勿論だが、増上寺に至るまでの道程がまたいい。まずは日比谷線神谷町駅で下車。東京タワー方面に向かう出口から地上に出る。桜田通りを挟んで、高い階段の先に見えるのは西久保八幡神社。太田道灌の江戸城築城の際に霞ヶ関から現在の地に遷されたという、歴史ある神社だ。この西久保八幡神社の並びにあるビルの窓に東京タワーの姿が映り込むのを見つつ、飯倉交差点を左折。程なくして東京タワーの前に出る。これを過ぎて進むと、芝・増上寺である。

image2 神谷町から増上寺に向かう途中では、このように東京タワーが見える。冬晴れの空にオレンジ色がよく映えている。東京タワーから増上寺までは徒歩4、5分だろうか。

増上寺の開山は室町時代の明徳4年(1393年)。開山当初は現在の千代田区平河町から麹町あたりにあったということだ。安土桃山時代に入り、徳川家康が関東を治めるようになった頃、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)、現在の土地に移転。江戸時代になると家康の手厚い庇護のもと、隆盛を極めた。勿論、家康の葬儀はここで行われている(遺言により)。明治に入ると、25万坪あった境内地の一部が政府に渡され、この土地は明治6年(1873年)に「芝公園」として開園。日比谷公園の回でも記したように、上野恩賜公園などと並んで日本における近代的公園の先駆けである。明治政府の打ち出した神道国教化の方針から、江戸時代まで様々な面で優遇されていた寺は、突如その特権や利益を手放さざるを得なかった。日本最初の公園が、それまで興隆していた上野・寛永寺やこの増上寺の敷地を使ったものだったということからも、近代化の名の下、明治期初頭にいかに寺が冷遇されたかが分かるだろう。やがて時代が下り、昭和20年(1945年)の東京大空襲で殆どを焼失した増上寺は、昭和27年(1952年)に仮本堂を設置。昭和46年(1971年)から4年かけて新大殿を建立し、平成になって行われた再建作業により、現在の姿となった。

image3 増上寺境内からの一枚。左手に見える屋根は本堂、右手は「黒本尊」を祀る安国殿だ。戦災により焼失した本堂は昭和49年(1974年)に再建された。

さて初詣の話に戻ろう。年越しのタイミングの増上寺は大変な賑わいなので避け、元旦の午後に詣でるようにしている。程よい人出で賑やかさもありながら、お寺らしい落ち着いた風情も味わえるし、お参りを終えて帰る頃には、まだ仄明るい時間ではあるものの東京タワーに明かりが灯っているのを見ることが出来るからだ。2014年1月1日(水)晴れ。少し寒さが緩んだこの日も、例年通り15時頃に増上寺境内に到着した。まず、前の年にお世話になった守護矢とお守りをお焚き上げの箱に納め、一礼。続いて本堂に向かいお参りをした。おみくじは引かず(高校受験の年に大凶を引いて以来引いていない)、新しい守護矢とお守りを買い求めたら、ホクホクと湯気が立っている方に向かう。出店でお汁粉をいただくのだ。ちょっと煮詰まり気味だけれども、冬の境内で食べるお汁粉は、他のどこで食べるそれよりも格段に美味しい。

image4 境内の出店では、お汁粉のほか、甘酒、焼きそば、イカ焼き、温かいお茶などが売られている。正月のお寺らしい賑やかな一面が顔を覗かせる。

お腹が満たされたところで、「黒本尊」の前のお線香の煙を浴びて、さぁ帰るかと思った矢先、「特別拝観 徳川将軍家霊廟」の文字が目に飛び込んできた。普段は公開していない霊廟を特別に披露しているということだったので、これも何かの縁と思い覗いてみることに。拝観料500円を支払ったら、入場券のほかに封筒を手渡された。表には「徳川将軍家旧御霊屋絵葉書」とある。先に記した通り、増上寺は戦災でその殆どを失ったわけだが、元々の徳川将軍家の霊廟もこのとき焼失している。この絵葉書は、焼失以前の霊廟の写真を用いたもので、10枚セットになった絵葉書のほか、かつての増上寺の敷地を描き記した地図も封入されていた。

image5 地図と絵はがきと半券。上になっている絵はがきは二代将軍秀忠公の霊廟である。「装飾美麗であり、当時の工芸美術の粋を尽くしたものであった」という。

霊廟の敷地内に入ると、宝塔が8つ。石塔もあれば青銅製のものもある。徳川将軍家の霊廟は、ここ以外には家康の日光東照宮のほか、主に上野・寛永寺にある。将軍家の菩提寺であるということは、江戸時代においては相当なアドヴァンテージであった。寛永寺は寛永2年(1625年)開山ということで後発だが、三代将軍家光の肝いりで菩提寺となった。当然、増上寺からの反発があり、結果、増上寺と寛永寺に交代で墓所を造営することで決着したのである。
このように初詣をして考えるのは、江戸時代のお寺の役割だ。寺請制度、檀家制度の確立は、お寺をひとびとの暮らしに親しいものにしただろう。法要のほか、市(いち)や見世物といった娯楽性のあるものも寺社の敷地で行われていた。つまりコミュニティのある種の中心であったのである。明治時代の神仏分離、廃仏毀釈までは寺も神社もゆるやかに共存していたので、明確に区分けをすることについてはあまり意味をなさないのだが、神社の背筋が伸びるようなキリッとした空気感に対して、お寺はどこか穏やかなムードが漂う。そんなところからも、お寺の親しみやすさというものが感じられると思うのだがいかがだろうか。

image6 徳川将軍家墓所門「鋳抜門」は、もとは六代将軍家宣公の宝塔前の中門だったもの。内側には写真の昇り龍、下り龍が鋳抜かれており、外側には左右5つずつ葵紋を配している。

ところで、増上寺へのアプローチはどちらかというと芝大門からの方が王道である。都営線大門駅から増上寺大門をくぐり、参道を進んで「三解脱門」(通称「三門」。江戸時代初期の姿を今も留めるこの門は、「むさぼり、いかり、おろかさ」という三つの煩悩を解脱する門である)から境内にというルートだ。かつての門前町に思いを馳せながら歩くのも勿論悪くないが、これだと、東京タワーをずっと正面に見ながら進むことになる。一方、神谷町からのルートは、やや時間を要するものの、冒頭に記したように表情を変える東京タワーを眺めながら増上寺を目指す。ひとそれぞれ好みがあるだろうが、私は角を曲がるたびに景色と空気が変わる神谷町ルートの方がお気に入りだ。逆に帰り道は時間があれば芝大門ルートをおすすめしたい。「尾崎紅葉生誕の地」に立寄るもよし、季節がよければ足を伸ばして旧芝離宮恩賜庭園、竹芝埠頭に向かうのもいい。そこからさらに浜離宮恩賜庭園、あるいは日の出桟橋から水上バスで浅草と、想像するだけで楽しいものである。



芝大門を生誕の地とした尾崎紅葉は明治期を代表する小説家。初期の号「緑山」、後の号「紅葉」ともに、増上寺にちなんで付けられている。未完の名作『金色夜叉』は、35歳で夭逝する氏の最晩年の作品である。/『金色夜叉』尾崎紅葉(著)新潮文庫刊

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青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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