渋谷・松濤―変わらぬお屋敷町を歩く│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

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BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#018

渋谷・松濤―変わらぬお屋敷町を歩く

2014-02-17 14:56:00

1937年(昭和12年)から1950年(昭和25年)のあいだ、三島由紀夫は渋谷区大山町、現在の松濤2丁目に暮らしていた。処女短編集『花ざかりの森』の出版が1944年(昭和19年)、作家としてのポジションを確立したといわれる長編小説『仮面の告白』が1949年(昭和24年)であるから、初期の作品はこの松濤の家で執筆されていたことになる。
渋谷駅を起点にすると、徒歩10分程度だろうか。松濤は、多くのひとが考える渋谷のイメージとはかけ離れた静かな地域だ。北側に神山町、東は宇田川町、西は目黒区駒場に隣接し、南側には道玄坂、円山町、神泉町。1丁目と2丁目だけと、面積としてはそれほど大きくないこのエリアは、都内でも高級住宅地のひとつとして知られている。元々この辺りの土地には紀州徳川家の下屋敷があったが、廃藩置県後、旧佐賀藩主であった鍋島家に払い下げられる。鍋島家は、そこに狭山茶を移植し「松濤園」という茶園を開き、その名にちなんでこの一帯は、茶の湯の釜のたぎる音を松風と潮騒に例えた雅名「松濤」と呼ばれるようになったということである。
果たして松濤にどこから向かうのがよいか? まず考えたのはそのことだった。渋谷駅から東急本店を目指してそこからスタートする、あるいは井の頭線の神泉駅から……と、ざっと思いつくだけでも幾つかある。暫く考えて、千代田線代々木公園駅から神山商店街を抜けて行くのがよいのでは、という結論に達した。地形を考慮すると、山側から谷に向かって行く方が理に敵っているはずである。

image2 神山商店街の真ん中あたりにある、白洋舎の本社。白洋舎は1906年(明治39年)、日本橋呉服町に創業した老舗のクリーニング店。創業当初からドライクリーニングを掲げていた。

代々木公園駅から地上に出て、代々木公園の横を過ぎ、神山商店街へ。一昔前はクリーニングの白洋舎本社と某宗教団体の大きな施設くらいしか目立つものがない、ごく普通の商店街だったが(渋谷至近という立地を考えると、普通というよりは閑散とした印象があった)、ここ数年で随分と賑やかな通りになった。特に飲食店の充実ぶりには目を見張るものがある。恋文横丁の台湾料理店「麗郷」の支店、ビオワインと自家製パンが美味しい「アヒルストア」、モダンな沖縄料理の「アダン食堂」、しっかりとした料理を出すビストロ「ピニョン」など、こうして店名を書いているだけでもお腹が鳴りそうなラインナップだ。これに加えて、魚屋の奥で魚定食を食べさせてくれる「魚力」など、古くからの店も健在である。また、2008年に書店「SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS」が開店し、2006年に現在の場所に移転してきた映画館/イベントスペースとカフェを併せた複合施設「UPLINK」とともに、この一帯に文化的な性格を与えているのも、神山商店街を活気づかせる要因として挙げられるだろう。

image3 2008年にオープンした書店「SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS」。雑誌、新刊、古書、ZINEまでと、扱いは幅広いがジャンルのエッセンスを凝縮した品揃えが嬉しい。

その「UPLINK」のある、神山町東交差点を右に曲がると松濤だ。少し歩いただけでも、それまでの神山商店街とはガラリと街の雰囲気が変わるのが如実に分かる。さすが都内有数のお屋敷町だけのことはある。歩を進めるとまず目に入るのは「観世能楽堂」。能楽の世界では最大の流派である観世流の拠点であり、能楽界最大級のホールである。1972年にこの地に建てられ、長らく能楽のシンボル的な存在として機能していた観世能楽堂だが、2016年秋に銀座・松坂屋跡地の複合ビルに移転するという。現在の能楽堂がどうなるのかはまだ報じられていないが、このあたりの落ち着いたムードを壊さないでいてもらいたいものである。

image4 観阿弥とその息子、世阿弥を源流に持つ観世流の拠点「観世能楽堂」。2016年に移転した後のこの建物の行方が気になるところである。

観世能楽堂の前を過ぎ、イギリス人設計家の手になる趣のある一軒家をレストランにした「シェ松尾・松濤レストラン」を左手に見ながら進むと「鍋島松濤公園」が見える。先に記したように、この地に茶園を構えた鍋島家だが、東海道線の開通が静岡茶の流通を促し、松濤園のお茶はそれに飲み込まれてゆく。その後、茶畑は果樹園となり(牧場も併設されていたそう)、大正時代に入るとその土地を分割し、宅地として販売した。現在、高級住宅が並ぶ土地は、元々は畑だったのである。鍋島松濤公園は、鍋島家の敷地内にあった涌き水池周辺の土地を、1932年東京市に寄贈して出来上がったものだ。地形としては完全なすり鉢地。「シェ松尾」の方から園内に入るとそのことがよく分かる。すり鉢の底に池があるのは、荒木町を彷彿とさせるものがある。この池は涌き水だけでなく、玉川上水の分水である三田用水も流れ込んでおり、さらに池からは宇田川へと注ぐ(もちろん暗渠化されているが)。わたしが訪れた日は、前の週末に降った記録的な大雪の名残はあったものの、よく晴れて長閑な空気が園内に流れ、池の傍の紅梅が冬の澄んだ空に綺麗な紅色を差していた。

image5 水車がのんびりと廻る「渋谷区立鍋島松濤公園」。この写真だけ見ると、渋谷とは思えない長閑さである。水車小屋の右手にある階段により、池がすり鉢の底になっていることが分かるだろう。

鍋島松濤公園のほど近くには「松濤美術館」がある。独特なフォルムを持つ建物は、静岡市立芹沢銈介美術館(石水館)も設計した白井晟一が手掛けている。冒頭に三島由紀夫の話を書いたが、この松濤美術館の近くにも作家が住んでいた。大岡昇平である。氏の渋谷での暮らしは自伝『少年』に詳しいが、松濤に住んだのは1922年(大正11年)、大岡少年が中学1年のときから京大に入学するまで(京大時代にも実家は松濤で、1930年下北沢に転居)だというから、三島由紀夫とはすれ違いだったようである。

image6 「渋谷区立松濤美術館」の外観。建物の修繕を経て、この1月にリニューアルオープンしたばかりである。2階には「サロン・ミュゼー」というコミュニティスペースも。

松濤美術館から、一旦、東急本店通りを松濤二丁目交差点つまり山手通りの方まで出て、松濤郵便局まで引き返す。この通りにはいかにもヴィンテージマンションといった風情のマンションも多い。おそらく東京オリンピック前後に建設されたのではないだろうか。一階がワインバーやカフェ、洋食屋などになっているところもあり、眺めていても楽しい。来街者向けというよりは、近隣に住まうひとやこの界隈に職場のあるひとたちが利用していそうな印象であった。
東急本店通りの松濤側を歩いて郵便局の方へ向かう途中、何気なく道の反対側に目をやると、明らかに川だったと思われる通りが見えた。円山町の裏手あたりに位置するその道に迷わず入ってゆくと、果たせるかな左手には細くて勾配のきつい階段がいくつもある。適当なところまで進み、階段を上ってみたら、ラブホテル街に出た。後で調べてみると、やはりここは水が流れていた。神泉谷というのだそうだ。道をもう一本隔てた西側は神泉町。なるほど、渋谷の町名は実に地形をよく表している。

image7 円山町から神泉谷を臨む。かなりの高低差があり階段も急。階段の上にはラブホテルが軒を連ねている。神泉谷をずっと進めば井の頭線の神泉駅だ。

お屋敷町である松濤は、それゆえ、昔からの街並の変化が少ない。駅周辺や表通りの再開発どこ吹く風といった面持ちである。いわゆる観光地ではないので、歩いて色々見てまわるスポットが必ずしも多いわけではないが、隣接する町との性格の違いを見る楽しさもある。歩き疲れたら、神山商店街まで戻って一杯、なんていうのも悪くない。



「SHIBUYA PUBLISHING BOOK SELLERS」で購入した一冊。金、ダイヤモンド、鉄、ウランなど、人類の生活に影響を及ぼした50の鉱物を図説している。ちなみに三島由紀夫の松濤の家の一部は、かつて銅製錬所だった遺構を使った「犬島精錬所美術館」収蔵の作品で見ることが出来る。/『世界史を変えた50の鉱物』エリック・シャリーン(著)上原ゆうこ(訳)原書房刊

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青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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