雑司が谷―稲荷の森で一杯食わされる
2014-03-07 13:56:00
雑司が谷に住む友人がオーディオ装置を一新したということで、試聴会が開かれた。試聴会といっても大袈裟なものでなく、それぞれが音源を持ち寄り、それを聴きながら食事やアルコールを楽しむという、非常にリラックスした楽しい会であった。これが私の雑司が谷初体験である。その日は雨降りで、会は夜からのスタートだった。暗い雨のなか、15分ほど歩いて目的の友人宅に到着したわけだが、その道すがらの様子が何とも興味深く、歩きながら近日中に再訪しようと誓ったのであった。
数日後。先日とは打って変わって晴天。春の兆しを感じさせるのに十分な日光を浴びながら、再び私は雑司が谷を訪れた。地下鉄副都心線雑司が谷駅1番出口から地上に出ると、フェンスとその向こうにある線路が目に入ってくる。駅前感はゼロである。比較的新しく開通した地下鉄の駅には、このように駅前感がないところが多いのだが、雑司が谷駅のこの出口はそれが顕著だ。目の前の線路は都電荒川線。昔で言う「チンチン電車」である。出口から左の方に目を移すと都電荒川線鬼子母神前停留場、線路を越えた向こうには「鬼子母神」がある。
鬼子母神へと続く参道であるケヤキ並木。かつては料理茶屋がずらりと軒を連ね賑わいを見せていたということだ。東京都の天然記念物でもある。
樹齢400年を数えるというケヤキ並木を抜け、突き当たりを左に曲がると鬼子母神だ。こちらは樹齢約700年という境内にある大きなイチョウの木と、たくさんの鳥居が連なる「武芳稲荷堂」が左に、正面には鬼子母神堂が見える。鬼子母神の元々の発祥はインドだそうだ。王舎城(オウシャジョウ)という夜叉神の娘、訶梨帝母(カリテイモ)は嫁いで子宝に恵まれたが、近隣の子供を取って食べるという残虐な性質から、ひとびとに恐れられていた。そうした有様を救おうと、釈迦は訶梨帝母の一番下の子供を隠してしまう。嘆き悲しんだ訶梨帝母に釈迦は、これまで子供を喰われた親の気持ちを諭し、悔い改めた帝母は釈迦に帰依。安産、子育ての神となった。雑司が谷の鬼子母神に祀られているのは、この伝承に基づいた幼児を抱いた菩薩形の像ということで、「鬼」の字の上の「ツノ」がつかないのである(入谷鬼子母神も同様に「ツノ」がつかない)。
雑司が谷鬼子母神堂。この本殿は1664年(寛文4年)に建立された、区内最古の建造物だそう。境内には1781年創業という長い歴史を誇る駄菓子屋「上川口屋」も。
鬼子母神の横には明治通りが走っている。ひとまず雑司が谷の外堀から内側に入っていこうと思い、明治通りと目白通りが交差する千登世橋まで出て、そこから目白通りを東進することにした。不忍通りとの交差点までやってくると、ずいぶん見晴らしがよくなったことに気付く。そう、ここから文京区目白台である。南を見れば、新宿あたりまでは見渡せるのだ。不忍通りに入ると、目白通りよりも古い建物が多い。そのまま護国寺方面に進んで、途中で左に入ってゆくと「清土鬼子母神」だ。
雑司が谷鬼子母神に祀られているご尊像は、1561年(永禄4年)に清土(現在の目白台)のあたりから掘り出され、境内にある「星の井」で洗い清められ、最終的に1578年(天正6年)、雑司が谷に落ち着くこととなる。清土鬼子母神は大変小さな規模のもので、ひっそりと佇んでいるが、ここは雑司が谷七福神のひとつ、吉祥天として古くから多くの人に崇められているのである(雑司が谷鬼子母神は大黒天)。この清土鬼子母神の脇の細い路地を抜けると、菊池寛旧宅跡(現在はマンションが建っている)や三角寛旧宅(こちらは昔の状態を維持して料亭となっている)がある弦巻通りに出る。池袋にあった「丸池」から、雑司が谷、護国寺を抜け、江戸川橋で暗渠となっている水窪川と合流し神田川に注ぐ弦巻川が、この弦巻通りの下には流れている。「江戸切絵図」を見ると、その流れはしっかり記されている弦巻川だが、暗渠化されたのは1932年(昭和7年)とかなり早いことから、その頃すでにこのあたりにも都市化の波がやってきていたことが分かるだろう。
ご尊像を清めた「星の井」は、清土鬼子母神の境内にある。すぐ近くに弦巻川があることから、このあたりは井戸が少なくない。ご尊像出土のとき、この井戸に星の影が現れたという伝説もある。
さて、雑司が谷といえば雑司が谷霊園である。清土鬼子母神あたりから霊園に向かうのは、決して広いとはいえない上り坂の道路だ。「谷」の文字がつくものの、雑司が谷は雑司が谷台地に位置する。弦巻川のルートが谷底となり、そこからせり上がっているのである。上っていく途中には、歴史を感じさせる日本家屋や、明治時代に布教のため来日したアメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブの私邸兼布教の拠点であった木造の洋館「雑司が谷旧宣教師館」などがあり飽きない。旧宣教師館を過ぎてしばらく進むと雑司が谷霊園だ。
「私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それで私は笑談(じょうだん)半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです」。夏目漱石の後期三部作のひとつとして知られる『こゝろ』(1914年)に、雑司が谷霊園が出てくるのは有名な話だ。霊園を散歩などというと不思議な感じに思われるかもしれないが、この雑司が谷霊園、非常に開放的な雰囲気なのである。同じ都立の霊園でも、青山霊園などよりは明るい。きっと空の見える分量が多いからだろう。ここは、ご存知のように夏目漱石、泉鏡花、永井荷風、竹久夢二といった文人の墓があり、ちょっとした観光名所になっている向きもあるから、余計に湿っぽさが感じられないのである。
アメリカ人が、自分たちの持てる技術や材料を「出来る限り」取り入れてヨーロッパのゴシック様式を真似た「カーペンターゴシック様式」の旧宣教師館。日本の欧風住宅の範にもなった。
ここから、南西に下り、清立院(せいりゅういん/「清龍院」とも)へ。急な階段を上ると、院内に毘沙門天が祀られている。サッシの引き戸を開けて拝観するというちょっと奇妙な置かれ方をしている毘沙門天像は木彫り。区の文化財にも登録されているということだ。せっかくだからと、ここから程近い大鳥神社にも立ち寄った。江戸時代から続く酉の市のときは大賑わいだそうだが、この日は静かなものであった。学校の課題だろうか、女子中学生数名が管理事務所の中に吸い込まれていった。大鳥神社には恵比寿様が祀られており、今回は結果的に七福神のうち四つを訪れることが出来た。そこから再び鬼子母神のケヤキ並木へ戻り、築80年という趣のある木造建築「並木ハウス別館」にある「キアズマ珈琲」でコーヒーをいただき、帰路に就いた。
鬼子母神の参道にある「並木ハウス別館」外観。「キアズマ珈琲」「雑司が谷案内処」などが入居している。裏手には、手塚治虫が暮らしたアパート「並木ハウス」が。
ところで、この日の昼食は蕎麦屋にしてみた。「してみた」と書いたが、何せ土地勘のない場所でのこと。歩き回って空腹のなか偶然見つけたその蕎麦屋の前の狸の置物が輝いて見えたのは言うまでもない。小さな蕎麦屋である。お品書きを眺めると「むじな丼」とある。初めて聞く名前だ。説明を読むと、油揚げに揚げ玉、そして玉葱を甘辛く煮て卵とじにしたものが、ごはんの上に載っているという。よし、これだ。しかし、なぜそんな名前なのだろうかと考えていたら、むじな丼が私の前に運ばれてきた。お味噌汁を啜ってから丼に手をつけて、なるほどと思った。このむじな丼、つまりはフェイクのカツ丼なのだ。もちろん、たぬき(揚げ玉)ときつね(油揚げ)という、ひとを化かすとされている動物、つまりむじなの要素はあるのだが、見た目もカツ丼なら食感もまるで厚みのない肉を使ったカツ丼なのである。肝心のお味の方はというと、油揚げにしっかりと出汁がしみていて旨い。一杯食わされてみるものである、などと思いながらきれいに平らげた。そういえば、鬼子母神のあたりは元々「稲荷の森」と呼ばれていたんだそうだ。
明治から大正という時代の移り変わりのなか、「私」と「先生」とのやりとりから、家や家族と個の関係性の変化、ひとのメンタリティにおける個人主義とエゴイズムを現した、夏目漱石後期の代表作。/『こゝろ』夏目漱石(著)角川書店刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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