吉祥寺―街の文化資本と商業施設
2014-05-23 11:32:00
吉祥寺である。念のため言っておくと、吉祥寺は「市」ではない。一般的にはJRと井の頭線の吉祥寺駅周辺を指すエリア名であり、東京都武蔵野市の吉祥寺本町、吉祥寺東町、吉祥寺北町、吉祥寺南町、御殿山、中町が概ねそのエリアに含まれる町名とされる。江戸の三大火のひとつとして知られる明暦の大火(1657年)で焼失した、諏訪山吉祥寺の門前町(現在の本郷一丁目あたり)の再建に際し、幕府はその地を大名屋敷とすることに決めた。それまで住んでいた人々には現・武蔵野市東部が代地として与えられ、吉祥寺の浪士と先住の農民とが協力して開墾にあたった。これが現在の吉祥寺のはじまりである。参勤交代により江戸の人口が増大するなか、承応2年(1653年)、8ヵ月という短い工事期間で完成した玉川上水が敷かれ、すでに武蔵野の土地を潤していたということも開墾を上手く進めるのに一役買っていただろう。長らく農地(主に畑)として利用されていた吉祥寺村は、明治時代に入り、東京府、神奈川県、そしてまた東京府へと移管され、明治32年(1899年)には吉祥寺駅が開業。関東大震災が多数の人口流入を招き、農地から住宅地へとその性格を変えた。このあたりは、高円寺などほかの中央線沿線の街の発展と軌を一にしている。
現在の吉祥寺は、近年の大規模再開発により駅周辺の様相がずいぶんと変わった。1969年以来、吉祥寺への第一歩として名の通った駅ビル「ロンロン」は「アトレ吉祥寺」に、「伊勢丹吉祥寺店」は「コピス吉祥寺」に、つい最近では井の頭線吉祥寺駅駅ビル(「ターミナルエコー」の後、手芸専門店「ユザワヤ」となったところ)が装いも新たに「キラリナ京王吉祥寺」として開業した。駅ビルが変わるということは、電車を降りて改札を出るところからして雰囲気が変わるということを意味する。実際数年前とはかなり印象が異なるのに少し戸惑いながら、駅の外に出た。
井の頭恩賜公園の中心にある井の頭池は、休日ともなるとご覧のように貸しボートが大繁盛だ。渋谷、新宿から20分弱の身近な行楽スポットである。
駅周辺を少し歩いてから、井の頭恩賜公園を目指す。家族連れやカップルが本当に多い。曖昧な記憶を頼りに歩いていたら、きちんと「いせや公園店」のところに出た。この「いせや」も老朽化のため、1960年から続いた木造店舗を改築し、2013年に現在の姿となったが、往事の賑わいはそのまま、外に流れてくる焼鳥の煙もそのままであった。「いせや」を右手に見ながら階段を下りてゆくと井の頭恩賜公園だ。井の頭恩賜公園において存在感を放っているのは、中心にある井の頭池である。休日ともなると、ボート漕ぎに興じるひとびとを多数見ることが出来るこの井の頭池は、豊富な湧き水を誇り、神田川の水源となっている。江戸時代には神田川を改修し、神田上水として飲用水を供給していたが、その大切な大元がこの湧き水なのである。井の頭池にある弁財天は天慶年間(938-946年)に安置され、鎌倉時代末期に一度焼失しているが、三代将軍徳川家光が再建する。弁財天はヒンドゥー教の「サラスヴァティー」すなわち水の神様が元となっているものであり、江戸市民の水源を守る大切な存在として、将軍のみならず民間からの信仰も篤かったのである。
井の頭池の東端、井の頭線の井の頭公園駅近くにある水門橋のところが神田川の起点。ここから神田上水を通って、江戸市民の喉を潤していたのである。
井の頭池のまわりをぐるりと歩き、吉祥寺通りに出て駅とは逆側に向かって進むと、武蔵野市と三鷹市の境に辿り着く。そこに架かる橋が「むらさき橋」。その下には玉川上水が鬱蒼とした木々の間を細く流れている。上水として機能していた時代にはかなりの水量であったが、役目を終えた後に一旦水が途絶える。それを清流復活事業により再び甦らせたのが現在の姿だ。ちなみに太宰治が入水したのはちょうどこのむらさき橋あたりと言われている。
この季節は草木が生い茂っているため、一見分からないが、身を乗り出して見ると玉川上水の水流を確認することが出来る。水に落ちないように気をつけたい。
むらさき橋から引き返して吉祥寺駅方面に行くと、賑やかさが戻ってくる。吉祥寺駅前信号から中央線の高架をくぐり、東急百貨店と藤村女子中学高等学校に挟まれたエリアは、洋服屋や雑貨屋、アンティークショップ、洋菓子店、喫茶店、レストランなどが点在している。大通りの喧噪とは少し距離を置いた、ある種の穏やかさも感じられるショッピングゾーンで、私などの吉祥寺のイメージはこのあたりの雰囲気なのである。
再び吉祥寺通りに出て、商工会館前信号から八幡宮前信号まで歩くと、来街者と思しきひとの数が激減し、近隣に住んでいると思われるひとの姿が目につくようになる。特に商業施設やショップがあるわけでもないので当然と言えば当然かもしれないが、吉祥寺通りの東側(つまり駅寄り)において広大な敷地を有しているのが寺社(と墓)であるということも、来街者が少ない理由のひとつであろう。あたりが夕闇に包まれる直前、八幡宮前の交差点から程近くにある「武蔵野八幡宮」に足を踏み入れた。武蔵野八幡宮は、明暦の大火で移住してきたひとびとが鎮守様として崇め、現在も吉祥寺の氏神として知られている。大鳥居をくぐってすぐ左手にある手水場がセンサー式になっているのには驚いた。
武蔵野八幡宮の本殿。旧吉祥寺村の鎮守として古くから愛されていたという。武蔵野吉祥七福神の大黒(大国)様としてもつとに有名である。
お参りした後、五日市街道を挟んで向かいにある寺にも立ち寄ろうと思ったが、扉が閉ざされていて入れない。薄暗くなる時間だし仕方ないと、1971年に完成し、当時は東洋一と謳われたアーケード「サンロード」を通って駅に向かった。間もなく閉館となる「バウスシアター」を右手に見ながら進むと、寺への入口があるではないか! 寺の名前は「月窓寺」。吉祥寺の四軒寺のひとつで、観音堂の脇には玄奘三蔵法師像がある。サンロード側は墓地となっており、聖俗が隣り合わせになっているところが興味深い。こうした光景は、京都などで見かけることはあるが、寺社というものは特別な存在でなく、日常のなかにこそ置かれるべきというようなところであろうか。
月窓寺の境内には、サンロードから墓地を通って辿り着く。目と鼻の先に商店街があるというのに、境内は静けさを保っていた。画面左手には玄奘三蔵法師像。
吉祥寺駅に戻り、帰路に就く前に「ハーモニカ横丁」をちらりと覗いてみた。戦後闇市を出自とするハーモニカ横丁は、駅前という最も移り変わりが激しく、また近代化、合理化の波に飲み込まれがちな場所にあって、かつての雰囲気を残しながら新旧の店が上手く混在することで、吉祥寺の代名詞的存在として現在まで人気を保っている。必ずしもここでしか味わえないものだけではないのだが、2011年からは、出店者を募り「ハモニカ横丁朝市」を実施するなどし、新たな客層、来街者の獲得、吉祥寺の魅力のアピールに努めている。単なるノスタルジーの安売りではないこうした取り組みは評価されるべきではないだろうか。
JR吉祥寺駅北口にあるハーモニカ横丁は、100軒ほどの小さな店がひしめき合っている横丁。横丁への入口はいくつかあり、写真はそのひとつ。
現在の郊外型ショッピングモールは、その外部を意識させないように作られている。来訪者はショッピングモール内を回遊し、その劇場的とでも言うべき空間とそこにおける消費を楽しむ。そうしたショッピングモールは、それが存在する街から遮断されることにより、その劇場性を担保することが可能になる。言うなれば、街の景観などはじめから必要ではないのである。車で来て、ショッピングモールで買物から食事から一切を済ませたらまた車に乗って帰る。そういうことである。何もないところに大規模なショッピングモールを作る場合はそれでいいのかもしれない。しかし、街の文化資本とでも呼ぶべき文化的資質が元々備わっている街の再開発はそういうわけにはいかないだろう。吉祥寺に関して言えば、近年の再開発は、これまであった建物を基盤に行われている。ハーモニカ横丁を潰してビルを建てているわけではないのである。もちろん、新しく作られた商業施設は暮らすひと、訪れるひとの目に、そして街そのものに馴染みのものとなるには、どうしたってある程度の時間は必要になるだろう。そこを考慮せずに「変わってしまった」と嘆くのは早計ではなかろうか。また、吉祥寺の比較的大きい商業施設は幾つか点在しており、ひとは道路を介して回遊することになる。来街者は道を歩くことで、それまで積み上げられた街の文化資本や歴史、そして至近にある井の頭恩賜公園では自然にも触れることが可能だ。街中にはチェーン展開する店や施設が増えたとはいえ、まだまだ独自の店、場所はある。チェーン展開の店は、そこに暮らすひとにとっては便利かつ必要なものという側面もあり、一概に排除すべきではないだろうし、来街者にとっては吉祥寺の独自性を感じられる店や場所の方が重要であるだろう。幸い、先にも述べた通り、街そのものに回遊を促す要素が多い吉祥寺は、居住者、来街者双方を満足させるような街づくりが可能であり、また両者が共感出来るような店、場所が増えてゆく可能性も秘めている。新宿に代表される巨大なターミナル駅ではない吉祥寺のような駅では、「駅の外に出なくて済む便利さ」ではなく「駅から外に出たくなる楽しさ」を考え、生み出していくべきではないだろうか。
1939年より三鷹に暮らした太宰治。『新ハムレット』所収の小説「乞食学生」の前半は玉川上水から井の頭公園が舞台となっており、その一部を記したモニュメントが玉川上水沿いの「風の散歩道」にある。/『新ハムレット』太宰治(著)新潮文庫刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
http://www.beams.co.jp
YouTube