新宿三丁目周辺―ビルの壁の内側を覗く│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

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BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#022

新宿三丁目周辺―ビルの壁の内側を覗く

2014-07-14 23:39:00

2013年3月に東急東横線と東京メトロ副都心線が相互直通運転を開始して、一年以上経過した。東急と東京メトロの渋谷駅構内が複雑化し、お世辞にも好評とはいえない状況が続く一方で、新宿エリアは活況を呈しているという。言うまでもなく、その要となっているのが新宿三丁目駅だ。東横線の乗り入れにより、横浜、武蔵小杉、自由が丘や中目黒といったところに住むひとびとは、ノンストップで新宿方面に行くことが可能になった。それにより新宿三丁目駅の乗降客数は飛躍的に伸びた。
新宿三丁目駅は1959年開業。当初は丸ノ内線単独の駅であったが、1980年、都営地下鉄新宿線の駅が開業し、乗換駅となった。2008年には副都心線が開通、2013年に副都心線と東横線とが相互直通運転を開始したのは前述の通りである。2013年以前は、東横線、田園都市線を利用していたひとが新宿方面に行くには、渋谷駅で山手線に乗換え、JR新宿駅で下車するというルートが一般的だったわけだが、それが一変した。JR新宿駅が巨大なターミナル駅として機能していた(もちろん現在もそうであることに変わりはない)のに加えて、かつては単なる乗換駅であった新宿三丁目駅が、新宿という街への入口のひとつとなったのだ。
駅ではなく、区分としての新宿三丁目は、JR新宿駅東口から東側は新宿柳通りまで、南北は甲州街道と靖国通りに挟まれたエリアだ。元々、新宿という呼称は、江戸時代に置かれた宿場「内藤新宿」に由来するもの。家康入城に際して、譜代の家臣・内藤清成がこのあたりの土地を拝領し、周辺には町人らが暮らすようになった。「内藤新宿」となる以前から町屋が置かれ、旅人の休憩所となっていたので「内藤宿」と呼ばれていたが、宿場を設けるにあたり内藤氏の土地は一部幕府に返上され、1698年改めて幕府公認の「内藤新宿」となった。内藤新宿設置のとき、土地を幕府に返上したのは、1691年、高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)初代藩主となった内藤清枚であったが、内藤氏が治める高遠藩の財政は厳しく、農民から召し上げた米を木曾商人に売り、財源としていたという。そうして得られた財源を投じて造られたのが、内藤氏の江戸屋敷の庭園であり、それは後の新宿御苑の大元になっているのである。

image2 新宿御苑を「旧新宿門」側から。明治時代に入り、内藤家から政府に上納された敷地に、近代農業振興を目指した「内藤新宿試験場」を設置。明治12年(1879年)に「新宿植物御苑」となり、明治39年(1906年)、4年の歳月をかけて完成したのが現在の新宿御苑だ。

さて、現代の新宿三丁目に戻ろう。
新宿三丁目交差点すなわち明治通りと新宿通りの交差点といえば、多くのひとが思い浮かべるのは伊勢丹、マルイといった百貨店、ファッションビルだろうか。あるいは2013年11月にオープンした「ルイ・ヴィトン新宿店」という方もおられるかもしれない。いずれにしても、この交差点周辺に見られるのは、殆どが比較的大きいビルである。そこから少しずつ離れてゆくと、建物のサイズが変わる。私が務めるBEAMSの店舗「ビームス ジャパン」もある新宿中央通りは、新宿通りからさほど遠くないにもかかわらず、大型ビルというよりは小規模の雑居ビルが密集している印象だ(元・三越南館だった大塚家具のショールームは例外的に大きい)。新宿三丁目交差点の東側、寄席「末広亭」のある一角などは、ぐっと建物のサイズが小さくなって、綺麗にお化粧した表通りにはない猥雑さが増す。

image3 大通りから裏に入ってゆくと、このように小さなサイズの建物が増える。こちらは「末広亭」近くにある建物。老朽化が進むものも少なくなく、この一角にも再開発の手が伸びている。

今回、私が訪れたのは日曜日の午後。午前中は雨がちだったが、雨も上がり、時折日の光が差した。まずは腹ごしらえと、新宿通りと中央通りの間あたりにある天婦羅屋「船橋屋本店」にて天ぷら定食。すぐ近くに「つな八総本店」もあるが、船橋屋の方が何となくあっさりした味わいのようで好みなのだ。このあたりであれば食後のコーヒーは「らんぶる」だ。一階のこぢんまりとした雰囲気からは想像もつかない広さの地階は実にシアトリカルである。シアトリカルと言えば、らんぶるの斜向いには「シアターモリエール」があり、今も現役だ。昭和初期には「ムーラン・ルージュ新宿座」という軽演劇とレヴューをかける劇場が新宿武蔵野館の近くにあったし、また唐十郎の「紅テント」を持ち出すまでもなく、新宿にはアングラ演劇の血も脈々と流れている。演劇にとって特別な街だということは、例えばこの界隈にある居酒屋「浪曼房」などを訪れるとよく分かるのではないだろうか。

image4 「らんぶる」の看板。こちらは中央通り側とは反対の入口に置かれたものだ。縦長の看板の上部に赤く見えるのは地階の写真。200席という席数からその大きさを想像してもらいたい。

新宿三丁目交差点は、古くは「新宿追分」と呼ばれていた。追分は道の分岐点。日本橋から四谷大木戸を経る甲州街道は、現在「追分だんご本舗」があるあたりで青梅街道と分岐する。今の甲州街道とは少しルートが違ったのである。新宿通りを四谷方面に向かってすぐ左手のエリアには、「末広亭」。この一帯は古くからの飲食店に混じって今風の立ち呑み屋なども多く、日曜の午後まだ日がある時間にもかかわらず賑やかだ。末広亭の並びには1946年創業の老舗洋食屋「ビフテキ屋あづま」がある。末広通りと要通りの間には、ゴーリキイの戯曲から名前をとったこちらも老舗の居酒屋「どん底」。全体的に賑やかさはあるが、表通りの顔をしかめたくなるような騒々しさでないところがこのあたりの特色だろうか。さながら大通りのビル群を城壁にした城塞都市のようでもある。

image5 新宿「末広亭」は明治30年(1897年)創業。第二次世界大戦により焼失するも昭和21年(1946年)に再建された。現在都内にある四軒の落語定席のひとつである。毎週土曜日には「深夜寄席」も。

では、この時間帯の二丁目はどうだろうと歩みを進めると、こちらはまだ開店している店もなく(そもそも日曜日が休みなのかもしれない)、静かな風情であった。グルグルと二丁目を歩いていたら、お寺が見えた。内藤新宿大宗寺だ。境内に入ってゆくと右手に大きなお地蔵様が鎮座している。江戸六地蔵のひとつ「銅造地蔵菩薩坐像」で、六地蔵の第三番だそうだ。その隣には「内藤新宿のお閻魔さん」「葬頭河の婆さん」の呼び名で親しまれている閻魔像と奪衣婆(だつえば)像(ともに新宿区指定有形民俗文化財)が収まるお堂。後ろを振り返ると三日月不動像を祀る三日月不動堂、その左手には小さなお地蔵様がある。近づいてみると、白い。これは「塩かけ地蔵」と呼ばれる像で、由来は定かでないそうだが、願掛け、とりわけおできやイボを治す祈願の際、塩を少しいただいて持ち帰り、お清めをする(患部にかけるとも)と治癒するというご利益があると言われている。願い叶ったあかつきには、持って帰った倍の量の塩を持参して納めるそうだ。思えば、内藤新宿は宿場であったが旅籠屋、茶屋があり、飯盛女、茶屋女が置かれていた「岡場所」だ。そう考えると、出来物というのは性病のことであったかもしれない。ちなみに奪衣婆は三途の川を渡る亡者の衣服をはぎ取る老婆だが、服を脱がせる(脱ぐ)というところから、このあたりの茶屋(実際は妓楼)から商売繁盛を願って崇められていたとも言われている。

image6 内藤新宿大宗寺の閻魔堂と銅造地蔵菩薩坐像。毎年、7月15日、16日には御開帳がある。この大宗寺には文中にあるものの他、曼荼羅図、山手七福神のひとつ布袋尊像なども。猫が非常に多い。

せっかくなので、花園神社にお参りしていこうと思い、靖国通りに出た。ビルとビルの間に鳥居。その鳥居を守るように両側から木が緑色の葉を繁らせている。参道を抜け、境内に出ると何だか参拝客という面持ちではないひとが多くいる。まぁひとまずお参りと、拝殿で手を合わせる。お参りを終えて振り返ると、ひとの多い理由が分かった。劇団「新宿梁山泊」第52回公演の千秋楽だったのだ。境内の特設テントの紫色が目に飛び込んで来た。花園神社は先にも記したように「状況劇場」も紅テントを出していたし、大酉祭(酉の市)には今も見世物小屋が出る。安永9年(1780年)と文化8年(1811年)には、大火で焼失した社殿再建のため、境内に劇場を設け、踊り、演劇、見世物を行っていたというから、花園神社と芸事の結びつきは深いのである。
花園神社の裏手あたりにはゴールデン街がある。昨年末、ここにあるジャズバーに行ったことを思い出した。そのときは、しこたま飲んだわりにはまだ時間が早かったので、新宿三丁目駅からメトロに乗って帰った。今回は飲まずに素面で帰った。





ロシアの下層民衆の姿を描いた『どん底』は、1901年、ゴーリキイが33歳のときの作品。文字通りどん底の生活を送る、希望があるのかないのかすら分からない登場人物たちに、1950~60年代の日本の若者も共振し、何度も演劇として上演された。/『どん底』ゴーリキイ(著)中村白葉(訳)岩波文庫刊

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青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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