新橋―ふたつの新橋と花井お梅│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

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BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#023

新橋―ふたつの新橋と花井お梅

2014-07-30 15:04:00

新橋演舞場の住所は、中央区銀座6丁目。わたしたちがよく知っている「新橋」ではない。新橋演舞場のあたりは、かつては木挽町と呼ばれていたところで、現在も幾つかのビル名にその名残を留めている。松竹の公式ホームページに拠れば、新橋演舞場は1925年(大正14年)4月、現在の場所に開業。建設以前は、築地川に面した荒れ果てた空き地だったそうである。なぜ、ここが「新橋」と呼ばれるようになったか? それについては後述するとして、ひとまず港区の「新橋」を歩いてみよう。
山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線というJR各線、東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線、そしてゆりかもめの駅もある新橋は、日本で初めての鉄道駅としてもその名が知られているが、現在の新橋駅は言わば二代目。初代新橋駅は1914年(大正3年)の東京駅開業に伴い、貨物線の汐留駅となり、1909年(明治42年)に開業していた烏森駅が新橋駅に改称され、現在に至る。だから、というわけでもないが、烏森口方面からこの徘徊はスタートした。駅前からの眺望でひと際目につくのは「ニュー新橋ビル」だろう。汐留側の高層ビルには高さでは勝ち目がなさそうな地上11階地下4階のこのビルは、物販や飲食のテナントが入居する4階までがあみだ状の意匠を施してあり、1971年(昭和46年)以来この地にて存在感を放っている。様々なメディアで紹介されているからご存知の方も多いのではないだろうか。居酒屋、定食屋、理髪店、マッサージ、アダルトグッズを扱う店、ゲームセンターなどがあり、さながら昭和のどこかの商店街のミニアチュールといった面持ちである。ちなみに「SL広場」もこちら側にあって、その昔は街頭テレビが設えてあったという。

image2 「ニュー新橋ビル」の外観。外壁だけでなく、ビルの階段部分の壁面など、建築物としての見所もたくさんある。中を歩き回って疲れたら喫茶店、お腹がすいたら定食屋、飲みたくなったら居酒屋へ。

ニュー新橋ビルから柳通りを渡って少し入ったところに、烏森神社がある。コンクリ造りの社殿は1971年(昭和46年)に造営したとあるが、起源は平安時代という歴史ある神社だ。「烏森」という地名は「枯州(かれす)の森」「空州(からす)の森」という、江戸湾の砂浜で松林ばかりだった時代の俗称に由来している。なおかつ、この松林にはカラスも多かったことから後には「烏の森」とも呼ばれ、時代が下って「烏森」となったということである。先に述べた通り、現在の新橋駅は旧烏森駅であり、そのことから、烏森という呼称がいかに根付いていたかが窺い知れる。烏森神社周辺は昔ながらの小さな建物が多く、汐留口方面との対比も面白い。小規模の飲み屋がたくさんあり、改めて単身者の街という印象を深くした。

image3 柳森神社(神田須田町)、椙森神社(日本橋堀留町)と並び、江戸三森のひとつである烏森神社。まさに路地裏という雰囲気の立地に、やや変わったかたちの鳥居がひと際目を惹く。

あちこち歩き回ってみると、古い建物やビルが少なくないことがより分かる。例えば新橋2丁目にある「堀商店」は1890年(明治23年)に創業した錠前専門店だが、ここの建物は1932年(昭和7年)に竣工し1998年には国の登録有形文化財となったものだ。大きくアールのついたスクラッチタイル張りのモダンな佇まいである。そして、こうした建物と同様、見逃せないのはJRの高架だ。レンガ造りの連続アーチ型高架は100年程の年月を経てなお現役。新橋駅から有楽町駅、東京駅までの区間に見られるこのアーチ型高架下には飲食店なども多く、それらを冷やかすのも楽しいだろう。高架をくぐって土橋方面に出たら、もう銀座だ。

image4 100年以上もの歴史を誇るレンガ造りの連続アーチ型高架。ひとが高架の下を行き来出来る箇所も幾つかあるので、これに沿って歩くだけでもなかなか楽しい。よく見ると、凝った意匠である。

土橋というからには橋である。いや、正確に言うと橋だった。では何に架かる橋か。暗渠化された汐留川である。元々は溜池などを水源とし、虎ノ門から浜離宮恩賜庭園を経て海に注ぐこの川の存在は、ちょうど浜離宮の入口あたりにある暗渠の出口くらいでしか確認することが出来ないが、東京高速道路の下つまり「銀座ナイン」の下を流れている。土橋からふたつ下流の橋が「新橋」。土橋よりも後に架けられた新しい橋なので新橋と呼ばれた。高速道路と中央通りが交差する場所、現在の銀座8丁目にあった新橋が、地名の新橋の由来とされており、かつての橋の柱がこの地にモニュメントとして遺されている。
さて、このあたりでもうひとつの「新橋」について触れておきたい。新橋演舞場のある銀座6丁目界隈の話だ。江戸時代の後期、ここは花街として名を馳せていた。橋の名称と同じく、こちらも新橋より以前に「柳橋」があったことから新橋となった。柳橋は文化年間からの花街で、隅田川沿いという交通の便のよさが幸いし人気を博したが、新橋も築地川至近ということで栄え、明治時代には「柳新二橋(りゅうしんにきょう)」と呼ばれ、江戸文化を継承する花街として一目置かれる存在であったという。冒頭に記した新橋演舞場の開業が1925年(大正14年)。「新橋花柳界の芸者衆の踊りに唄、既に当時、一流と云われた芸能を広く知らしめる場としての誕生だった(東京新橋組合ホームページ「新橋花柳界の歴史」)」。新橋演舞場は第二次世界大戦の東京大空襲で一度外壁を除いて焼失するも(レンガ造りのため外壁は残った)、1948年(昭和23年)に復興。時代の要請に応じ、1982年(昭和57年)に現在の姿となった。

image5 みゆき通りから昭和通りを越えた采女橋(うねめばし)の程近くにある「新橋演舞場」。現在は日産自動車本社ビルと複合した建物となっているが、正面玄関はかつての姿を彷彿とさせる。

新橋花柳界は、まり千代というスター芸妓を輩出した。新橋演舞場で芸者の踊りと料亭の食を堪能することが出来る「東をどり」の戦後復活第一回の立ち役(男役)を務めたまり千代は、当時の女学生のあいだで絶大な人気を誇ったという。ブロマイドや羽子板が飛ぶように売れ、演舞場には出待ちの人だかりが出来たそうだから、現在のアイドル顔負けである。このまり千代が表のスターなら、新橋花柳界には、ダークスターとでも呼ぶべきもうひとりの女性がいた。名を花井お梅という。
1863年(元治元年)に生まれたお梅は、15歳のとき柳橋で小秀の名で芸妓となり、18歳になると新橋へ移り、宇田川屋秀吉(ひできち)という名で御神燈をあげた。豊臣秀吉にちなんでのことである。
旦那(パトロン)からのお金を歌舞伎役者・四代目澤村源之助に血道をあげて貢ぐ。あるとき、源之助が芸妓の役を務めるというので、お梅はその衣装を新調して源之助に贈った。ところが源之助、同じく彼に貢いでいた芸妓・喜代治にそっくりそのままその衣装をくれてやってしまったからさぁ大変。お梅は剃刀片手に源之助のところに乗り込んだ。源之助と喜代治は上手く裏口から逃げ、無事を得たが、着物のことを秀吉(お梅)に告げ口したのは誰だということになり、当時源之助のところで男衆をしていた峯三郎がその廉でクビにされてしまった。この峯三郎が、後にお梅に殺られる峯吉である。
月岡芳年が『近世人物誌』で描いていたり、また『明治一代女』の題材にもなっていることから、ご存知の方も多いこの花井お梅の事件は、当の時代にあっても大変センセーショナルであった訳だが、篠田鉱造の労作『明治百話』では、近しかったひとが語るお梅像を垣間見ることが出来てなかなか興味深い。江戸っ子気質で人情に篤いお梅がなぜ峯吉を殺してしまったか。これは色々な説があるようだが、トリガーとなっている要因はさておき、お梅は酒乱の上、強度のヒステリーだった。峯吉との事件もカッとなって「たまたま」所持していた出刃包丁で刺してしまい、刺された峯吉は後に死亡、お梅は旦那に充てがってもらった浜町の待合「酔月」(水月とも)に戻り、父親に委細を話し、自首した。逮捕後、無期徒刑となるも15年後特赦で出所し、汁粉屋、洋食屋を開くが上手くゆかず、その後に開いた小間物屋も畳んで、1905年(明治38年)、峯吉殺しの芝居を演じる旅回りを始めた。お梅42歳のことだ。1916年(大正5年)、新橋の芸妓に復帰し秀之助を名乗るも、同年12月、肺炎のため亡くなっている。
思えばお梅は特赦で釈放されたところから死にそびれてしまったのかもしれない。宙ぶらりんのまま10数年。最期を看取ったのは恋敵だった喜代治だったそうだ。新橋は、関東大震災、東京大空襲で被害が大きかったものの、明治期のレンガ造りの建造物はどうにか残った。すべてが無になった訳ではなく、明治に生まれ、死にそびれてしまったものが残る街。元々の新橋駅だった汐留駅の跡地に建つ高層ビル群は、まるで無くなってしまったもののための卒塔婆のようである。新橋の高架下や路地裏の焼鳥屋からは、今日も線香のように煙が流れる。実に魅力的ではないか。



近代日本における女性犯罪者三名の姿を、時代、社会と照らしながら、彼女たちがなぜ「毒婦」呼ばわりされるに至ったかを考察する一冊。花井お梅については、本文中で紹介した篠田鉱造『明治百話』(下巻)と併せて読んでみては。/『毒婦伝 高橋お伝、花井お梅、阿部定』朝倉喬司(著)中公文庫刊

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青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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