高田馬場―夏期講習の思い出│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

全く新しい大人のwebマガジン

BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#024

高田馬場―夏期講習の思い出

2014-08-15 12:01:00

夏のある日。改札を抜けて駅の階段を下りると土砂降りだった。夕立ち、今様のことばで言えばゲリラ豪雨だ。高校生と思しき男女が、離れて別々の場所に立っている。傘がないので駅から帰ることが出来ないのだ。

小学校、中学校と学習塾はもちろん、一切のお稽古事や習い事をしたことがなかった私は、高校のとき一度だけ予備校の夏期講習に参加した。どういう経緯でそうなったのかはもはや判然としないが、ただ何となく、というのが最も的を得た理由ではなかったかと思う。部活にも入らず、たまにバンド活動をするような私立男子高校の生徒のこと、あらかたそんなものだろう。通う予備校の選定も友達任せだった。そうして行くことになったのは、高田馬場の予備校だった。
私の学生時代にも高田馬場には予備校がたくさんあった(おそらくもっと前からそうだっただろう)。「東大現役合格◯◯人」「早慶を目指すなら◯◯予備校」のような謳い文句があちこちに見られたが、私の通っていた高校は、全員が行ける訳ではないにせよ一応大学の付属だったので、大学受験の切実さみたいなものとは多少の距離があり、夏期講習もぼんやりとした理由でぼんやりと行っていたように思う。コンクリートの照り返しがじりじりと暑い。記憶に残っているのはそんなことだけだ。ところが、夏になるとなぜかいつもこの夏期講習のことが頭に浮かぶから不思議なものである。
北と西を神田川に囲まれ、東は明治通り、南端は都道25号線(諏訪通り)といういびつな平行四辺形のようなかたちをしている高田馬場。そのちょうど真ん中少し上あたりに高田馬場駅がある。現在の地名である「高田馬場」は、1910年山手線に開業した駅名にちなんで、1975年の住居表示による町名変更の際に名付けられた。本来の高田馬場は、江戸時代に馬術や流鏑馬の練習場として現在の西早稲田3丁目に造営された馬場のこと。駅から決して近いとは言い難い高田馬場をなぜ駅名に採用したのかは定かでないが、今ではすっかり定着した地名となっている。

image2 高田馬場の駅前といえば「BIG BOX」。今年で40周年を迎えるBIG BOXは、スポーツ複合施設としてオープンしたもの。当初はボーリングやクレー射撃場、サウナなどがあり、現在はファッションや飲食の店も。正面の青い部分は昔は赤色だった。

JRの駅を下り、まずは神田川方面へと歩を進める。駅から最寄りの神高橋まで出て、神田川の流れに目を遣り、一旦駅の方に戻る。そこから早稲田通りを馬場口、つまり明治通りとの交差点を目指して歩いた。10階建て程度の高い建物はあるものの、低層の建物も多く、新旧混合で整理されていない雰囲気である。しばらく行くと、右手に「早稲田松竹」。都内でも数えるほどしかなくなってしまった名画座映画館のひとつだ。早稲田松竹からもう少し先が高田馬場の端、馬場口の交差点である。ここを越えると新宿区西早稲田となり、さらに先まで行けば早稲田大学に辿り着く。

image3 神高橋から見た神田川。思いのほか流れがしっかりとある。大雨のときには相当増水し、急流となる。画面左下は「神田川親水テラス」と呼ばれ、夏季の限られた時間帯には一般開放されているそうである。

馬場口から明治通りを南下しようとしたら、右手に細い階段を見つけた。上ってゆくとちょうど明治通りを見下ろすかたちになる。高田馬場には高低差の大きい崖のような場所が幾つか存在するが、ここもそう。上りきったところには、馬の頭の銅像と東京オリンピックのときの国旗掲揚塔がある。高田馬場は豊島台地にあり、川が存在する、あるいはした場所は沖積低地となっていて、その高低差から崖のようになるところも少なくない。また河川の影響以外にも台地のあいだに高低差があり、それが起伏に富んだ街並を形成しているのである。

image4 馬場口近くの階段を上りきったところにあった国旗掲揚塔。1975年までは、このあたり一帯は諏訪町という名だった。画面では分かりにくいが、塔の向こう側、明治通りはかなり低くなっている。馬の頭の銅像もこのすぐそば。

ここですんなり明治通りに引き返せばよかったが、そのまま細い路地に入っていってしまった。勘を頼りに右に左に曲がると思いがけず行き止まりになっていたりして、なかなか迷宮から出られない。このあたりは住宅街で、趣のある個人宅のほか、相当古くからあるであろうアパート(おそらく昔は学生アパートだった)や洋館風のモダンな佇まいの下宿「日本館」がある。「日本館」は朝夕二食の賄い付きの男子学生専門の下宿。1936年(昭和11年)竣工というから80年近くは経っているが、豊島台地の堅牢な地盤が幸いしたのか、今も建物はしっかりしている様子だ。下宿としてはもう使われていないと聞くが、どうだろうか。
路地に迷い込んだ結果、こうした建物に出合うことが出来た訳だが、とにかくグルグルと一帯を歩き回り、ようやく「諏訪神社」の姿が見えた。諏訪神社の創建は弘仁年間(810~820年)という由緒正しき神社。当初は松原神社と呼ばれたが、尾張徳川家の祖、徳川義直が信濃国の諏訪神を松原神社に合祀し、諏訪神社と改称した。度重なる火災により、社殿は焼失と再建を繰り返し、現在の社殿は1980年(昭和55年)に落成したものである。

image5 訪れた時間が少し遅かったため、敷地内に入ることが出来なかった「諏訪神社」。画像は隣接する駐車場からのものである。新宿区登録有形民俗文化財「塞神三柱の塔」や今も湧き水の出る手水舎など、見所も多いので是非再訪したい。横には「玄国寺」も。

諏訪神社には、明治天皇が行幸した碑がある。1882年(明治15年)、諏訪の森近衛射的場が現在の戸山公園のあたりに出来、その射的砲術を諏訪神社境内から天覧したのだ。戸山公園周辺は明治時代に入ると陸軍用地として接収され、様々な軍事施設が造られたが、この射的場もその一環である。戸山界隈の話は書き出すと相当な量に及ぶので別の機会に譲ることとして、諏訪通りを西進しよう。
山手線の高架の手前で右折し、再び高田馬場駅方面へ。途中、ガードを潜って高田馬場四丁目から早稲田通りに出た。中規模の雑居ビルが立ち並ぶ様は、昭和の頃とあまり変わりがないようにも思われる。手塚治虫作品のキャラクターがびっしり描かれたガードを通って、再び駅前。なのだが、ここから先、どういうルートを辿ったかあまり憶えていない。なにしろ暑かった。最終的に諏訪神社隣の「玄国寺」に程近い、妙に蛇行した通りに出た。
蛇行していて、左右の土地よりも低くなっている道は、かつて川だったというところが多い。後で調べてみると、この道は「秣川(まぐさがわ)」あるいは「馬尿川」と呼ばれていたことが分かった。秣川の水源は諸説あって、新大久保とも諏訪の森とも言われているが、最後は早稲田通りを越えて神田川に注いでいる川で、言うまでもなく現在は暗渠化されている。途中、地味ながら変わったかたちの護岸壁のような石壁があり、それを過ぎて諏訪公園の下まで行くと、公園との高低差に驚かされる。公園までは傾斜のきつい階段を上って行かねばならないのだ。

image6 高田馬場1丁目15番あたりにある護岸壁と思しき石壁。道路の下に秣川が流れている。神田川方面に向かって結構な傾斜がある道だ。もう少し進むと「諏訪公園」。まさしく断崖の上にあるので注意して見ないと見落とす可能性も。猫が多かった。

そのまま川筋に沿って進み、早稲田通りを越えてゆくと立派な材木店がある。秣川はその脇から神田川に流れ込むようになっている。流れの終着点を確認し、神田川沿いを歩いて駅から再度ガードを潜って「さかえ通り」に出た。気取ったところのない飲食店が立ち並ぶこの通りの中腹あたりを左に入ってみたら、古い卓球場があった。「山手卓球」である。窓が開いていたので中を覗くと、実に落ち着いた風情のある卓球場だった。

image7 よく磨き上げられた床と木の壁が、古さはありながらも清潔な印象を与える「山手卓球」は、現在も現役で営業中。玄関と呼びたい入口で、スリッパに履き替えて入場するようである。さかえ通りから少し入ったところにあるが、並びにも飲食店が幾つか。

高田馬場には昭和の風景がある、とよく言われる。それは確かにそうなのだが、高田馬場にあるのは大事に保存されたステレオタイプな昭和ではなく、気がつけばそのままそこにずっとあるという建物、施設がほとんどと言ってよいだろう。大規模な再開発を免れてきた背景には、高低差が大きく起伏に富んだ地形が影響しているように思う。もちろん、古くから住んでいる方が多いというのもあるだろうが、現存する建物を取り払っても広くて平坦な更地はなかなか確保しづらいのではないだろうか。いずれにしても、巨大なだけの無味乾燥な建物に占領されることなく、未整理の状態であることが、高田馬場の個性である。いわゆる現代的な駅ビルがないのもいい。街にとって停滞は忌むべきものだが、高田馬場にあっては、建物もひとの営みも脈々と続いている。利便性を楯にした巨大な重機が、こうした街並をフラットにしてしまわないことを願うばかりである。

さて、はじめに書いた高校生、男の方は高田馬場で夏期講習を受けた帰りの私である。離れて立っていた女子高校生は見知らぬひと。話しかけてみようかなと、ことばを考えているうちにそのひとはいなくなっていた。雨は、しばらくして止んだ。



手塚治虫の「手塚プロダクション」は1976年、高田馬場に事務所を移転。以来、高田馬場と手塚マンガは縁の深いものとなった。山手線の発車音には『鉄腕アトム』が使われ、ガードには手塚マンガのキャラクターが描かれている。/手塚治虫文庫全集『ブラック・ジャック』(1)手塚治虫(著)講談社刊

最近のコラム

青野賢一さんのINFORMATION

Writer

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

kenichi_aono on Twitter