中野―生まれ変わる犬屋敷
2014-11-13 11:54:00
中野駅前の様子がずいぶんと変わった。とりわけ中野ブロードウェイや中野サンプラザがある北口は数年前とは大きく様子が違うのだが、これはまだ途中の段階なのである。
2020年に開催される東京オリンピックに向けて、東京は色々と変化してきている。その特異な外観と膨大な工費から話題になった、ザハ・ハディド設計によるオリンピックスタジアム建設はまだもう少し先だが(2019年完成予定)、道路の拡張や整備、駅周辺の再開発などが着々と行われていて、中野駅周辺もその例に漏れない。
北口を出て左手には警察大学校があったが、2001年、府中市に移転し、ここ1、2年でその18ヘクタールもある跡地には複数の大学とオフィスビルが出来た。この警察大学校移転跡地は現在「中野四季の都市(なかのしきのまち)」という名称となり、同敷地内には公園も整備されている。時代を遡り、警察大学校が中野に出来る前は何があったか? ここには陸軍中野学校というスパイ養成のための機関があった。1938年大日本帝国陸軍により設立された防諜研究所が翌年中野に転入し、1940年陸軍中野学校と改称。1945年、空襲が激しくなると群馬の富岡町に疎開して授業を続けたという。この陸軍中野学校を題材にした市川雷蔵主演の映画『陸軍中野学校』(増村保造監督、1966年)というものもあったので、ご存知の方もおられるかもしれない。
さて、さらに時計の針を江戸時代まで戻してみよう。1685年(貞享2年)、動物全般の殺生を禁じた「生類憐みの令」が発布された。これにより、江戸には野犬が増え収拾がつかなくなる。幕府はその対応策として、現在の大久保と中野にそれぞれ2万5000坪、30万坪という広大な敷地を確保し、野犬を収容する犬小屋を作ったのだった。中野の犬小屋には実に11万頭のお犬様がいたというから、そのエサ代も馬鹿にならなかったのではあるまいか。この生類憐みの令を施行した徳川綱吉が亡くなり、家宣の代になるとこの御触れは廃止され、犬小屋も同様に撤廃された。この跡地に出来たのが陸軍中野学校だ。ちなみに現在の中野区役所の敷地内には、数匹の犬の銅像とともにこの地がかつて犬屋敷だったことを記した碑がある。
そんな中野駅北口だが、変わらないところも少なくない。駅前から至近のサンモール商店街は全長224メートルのアーケード商店街。チェーン展開の飲食店などもあるが、古くからある個人商店も多く、いつも買い物客で賑わっている。アーケード化したのは1958年というから歴史も長く、地域住民にも親しまれているのが窺える。このサンモール商店街を進んでいった突き当たりが中野ブロードウェイだ。「サブカルの殿堂」などと称される中野ブロードウェイだが、そうした趣味性の高い店舗だけでなく、飲食店、スーパーなどから歯科医や整体といったものまで存在する。地下1階から地上4階までがショッピングエリアで、それより上階は居住エリア。かつて東京都知事も務めた作家、故・青島幸男が住んでいたことでも知られている。
サンモール商店街のアーケードの天井部分。「サンモール」の名称がついたのは1975年の改装の際だという。名称に違わず天井から自然光が入り、柔らかな明るさを感じられるアーケードである。
中野ブロードウェイの開業は1966年。スタート当初から今のようなサブカルチャー色があったわけではない。サンモール商店街が地面に沿って伸びるアーケードである一方、ブロードウェイは縦に展開する施設だった。つまり、横(平面)か縦(垂直)かの違いだけで、内容としては大きく変るものではなかったといっていい。ちょうどパリのパサージュから世界最古の百貨店「ボン・マルシェ」へと発展してゆく過程に近いものがある。それが現在のようなテナント構成になったのは1980年に「まんだらけ」が出店してからだといわれている。
1980年は、日本のデザイナーズブランドの人気が高まっていたときで、こうしたブランドを擁するファッションビルに客足が集まっていた上に、70年代後半からのスペース・インベーダーやギャラクシアン、パックマンといったコンピュータ・ゲーム、YMOに代表されるテクノポップなど、テクノロジーを駆使した新しい文化が台頭してきた時代でもあった。どちらかというと地域密着型だった中野ブロードウェイは、こうした流れに遅れを取り、またテナントであった個人店の経営者の高齢化ということとも相まって衰退し、空き物件も増えてきた。このような状況で漫画専門の古書店「まんだらけ」は中野ブロードウェイに開店したのであった。安価な中古漫画はもちろん、希少性の高い漫画やサイン本、アニメのセル画などを取扱い、人気を博したまんだらけは、ブロードウェイ内で店舗を増やし拡大したが、バブル崩壊後さらに増えた空き物件に、まんだらけと親和性の高い店舗が出店することで、中野ブロードウェイは現在のような構成となったのである。70年代から80年代にかけて、ニューヨークのダウンタウンでは、工場が閉鎖され空き物件となった建物をアーティストたちが安価で買い上げ、いわゆるロフト・アパートメントとして使いはじめる。そこは住居だけでなく、ギャラリーやスタジオにもなり、この時代のダウンタウンは一大アーティスト・コロニーと化していたのだが、それと近しいことが中野ブロードウェイでも起こったのだった。
サンモールを直進すると中野ブロードウェイ。「NAKANO BROADWAY」の文字の下が入口だ。ここ数年で美術家・村上隆によるギャラリーやカフェも出来、よりアート色が濃くなった印象も。
サンモール商店街から中野ブロードウェイに至る道のりの途中途中には、いわゆる横丁がたくさんある。中野北口一番街、二番街、三番街、五番街、狸小路、白線通、新仲見世、昭和新道と、ざっと挙げただけでもこれだけあって、それぞれがまた小径でつながっているから、慣れない者にとっては迷宮のようである。これらの通りには、サンモールと同様にチェーン店もあるけれど、こぢんまりした居酒屋、鰻屋、天麩羅屋、焼鳥屋なども多く、歩いていると目移りしてしまうのが楽しい(そのせいでまた自分の居場所が分からなくなるのだが)。
1964年創業の老舗バー「ブリック」は、中野北口一番街にある。昔ながらのクラシックな佇まいながら、気軽に立ち寄れるリーズナブルな価格設定が嬉しい。フードも充実。銀座、八重洲などにも店舗が。
サンモール商店街、中野ブロードウェイとこれらの横丁は、おそらく暫くは大きく変ることはなさそうだが、このすぐ近くにある中野サンプラザはどうか。1973年に開業した中野サンプラザは、全国勤労青少年会館というのが正式な名称で(中野サンプラザは愛称)、旧労働省所管の特殊法人である雇用促進事業団の公共施設だったが、2004年、区と民間企業が出資する「まちづくり中野21」に売却され、今に至る。2222人収容のホールでは、開業した頃から様々なジャンルのコンサートが催され、近年ではアイドルのイベントも盛んだという。
あまり知られていないかもしれないが、中野サンプラザの上階はホテルになっている。山口瞳『新東京百景』(新潮社刊)は、1986年(昭和61年)から翌年にかけて『小説新潮』で連載されたものをまとめた単行本だ。エッセイと絵(絵も山口瞳による)で当時の東京の新名所を表したこの連載の第一回は、新宿副都心の高層ビル群を中野サンプラザの19階にある部屋から描く、というものだった。泊まりがけで夜の高層ビルを描き、「翌朝は、地下の大食堂でヴァイキングの朝食を摂った」が、その大食堂は今はない。
夜の中野サンプラザ。写真では分かりにくいが、横から見ると直角三角形のようなかたちの建物だ。山口瞳も宿泊したホテルエリアは16~19階。20階のレストランの一部からも新宿の高層ビルが見えるという。
中野サンプラザは、建物の老朽化という安全面から解体、建て替えが予定されており、隣接する中野区役所は移転の方向で計画が進んでいる。加えて長らくなかった駅ビルを新設するというプランと併せて、2020年から数年のうちに完成するそうだ。中野のランドマーク的存在だったサンプラザの歴史的価値を考慮した設計、構成になればと思うが、さてどうだろう。
大掛かりな再開発が行われる北口に対し、南口はそれほど大きな変化はなさそうである。北口に比べやや寂しい印象のある南口だが、駅ビル建設によって南北の行き来がより活発に行われるようになれば、またムードが変わるかもしれない。マルイの脇の急な坂を上る「レンガ坂商店会」は2002年に出来た比較的新しい商店街だが、洒落たバーやカフェもあり、北口の雑多なムードとはまた違った魅力を放っていて面白い。ついつい気になってグルグルと歩き回っていたら、古い建物の前に出た。「桃園会館」という看板があり、横には豊川稲荷の祠もある。後日調べてみたところ、桃園会館はいわゆる公民館的な施設だが寄席をはじめとするイベントも行われているという。かつてこの辺りは桃園町という地名だったことの名残である。江戸時代には8代将軍吉宗が造営させた桃園があり、桃の花の名所となったため、江戸中心部(江戸時代、このあたりは郊外である)からの遊客も多かったそうである。また吉宗をはじめ、歴代将軍の鷹狩り場としても有名であった桃園町には、御立場跡も遺されている。
レンガ坂商店街は最近リニューアルしたばかりで、夜になるとライトアップされている。細い坂道を上り、脇道に逸れると写真のような洒落た店も多い。あえて北口と差別化を図っているのだろう。
後日、中野が地元の友人に少し話を伺った。彼が子供の頃には陸軍中野学校などに関する噂はなかったそうだが、中野駅から北上した沼袋にあった中野刑務所は怖かったという。市ヶ谷監獄が手狭になったという理由から着工され1915年(大正4年)に竣工した豊多摩刑務所(翌年に豊多摩監獄、大正10年に再び豊多摩刑務所、昭和32年中野刑務所に改称)は、後藤慶二設計によるモダン建築としても有名なものだ。治安維持法の時代には大杉栄や小林多喜二といった政治犯、思想犯が主に収容されていたこの刑務所は、1983年(昭和58年)を最後に閉鎖、解体され、現在その広大な敷地の跡は平和の森公園となっている。刑務所の面影は、同敷地内にある法務省矯正研究所に刑務所の表門の遺構があるだけである。往事の建物の様子は「中野区 なかの写真資料館」にて見ることが出来るので、ご興味ある方は参照されたい。
確かに、子供の頃、近所に監獄があったら誰しもえも言われぬ恐怖はあるだろう。しかし翻って考えるならば、監獄に限らず、墓地、火葬場、猥雑な風俗街や飲食街などが生活と地続きに存在することで、私たちは社会を学んでいったのではなかったか。漂白された無味無臭の街からは一体何を学べばよいのだろう。中野でいえば、せめてサンモール、中野ブロードウェイ、そして様々な横丁は雑多なままであってもらいたいと考えるのは、単なるノスタルジー以上の意味を持つのではなかろうか。
バブル期の東京の新名所(迷所?)に赴き、その風景を絵として収めながらもそれだけでは終らないハプニング満載の東京漫遊記。「雨の原宿表参道」「代官山は菓子の町」など、現在の街の様子と比較すると面白い。現象と文化の違いを改めて考える一冊。/『新東京百景』山口瞳(著)新潮社刊
※リンク先では文庫版を紹介しています。
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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