白金台―庭園美術館を中心に
2014-12-19 18:10:00
2011年から大規模改修に入っていた東京都庭園美術館(以下、庭園美術館)が、この11月に晴れてリニューアルオープンと相成った。本館は元々の状態に復原、修復することを目指し、1964年に作られた新館は、装いも新たにホワイトキューブ二室を備えた現代的な施設へと変貌を遂げた。都内の美術館でこれまで私が最も多く足を運んだのは、実はこの庭園美術館なのである。庭園美術館の所在地は港区白金台。今回はこの庭園美術館と白金台周辺を久しぶりに歩いた。
JR目黒駅から目黒通りを進み、上大崎の交差点を越えると東京都庭園美術館はある。ある、といってもすぐにその姿が見えるわけではない。よく繁った木々がまずは目に飛び込んでくる。正門から本館へのアプローチは、季節ごとに表情が変わり楽しい。ゆるやかなスロープを暫し上ると本館だ。
夕暮れ前の庭園美術館本館外観。基本設計は宮内省内匠寮(たくみりょう)の建築家・権藤要吉が担当、主要部分の内装を当時のフランスを代表する装飾美術家アンリ・ラパンに依頼した。日仏の美意識と技術の結晶とでも呼ぶべき建物である。
改めて申すまでもないが、東京都庭園美術館本館は、かつて朝香宮邸として使われていた建物である。1925年にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」は、工業デザイン、グラフィック、ファッション、建築などの分野における、工業技術に基づいた新しい造形の作品が主役であり、通称「アール・デコ博」とも呼ばれるものだが、朝香宮ご夫妻はこのアール・デコ博を訪れ、大きな感銘を受けた。1851年に第一回がロンドンで開催された国際博覧会は第二次世界大戦前までのあいだ、大きな影響力を持ち、世界中から多くのひとが足を運んだ。なかでも、女性の社会進出が始まったことを背景に、女性客を意識した内容が盛り込まれていた点は注目すべきだろう。「まず、万国博の観客の半分は女性であったから、彼女たちの消費者としての好みが、内容に影響を与えた。さらに、万国博は、すべての国、すべての文化を集めようという趣旨を持っていたから、女性文化を排除するわけにいかなかった」(海野弘著、アーツ アンド クラフツ刊『百貨店の博物誌』より)。朝香宮ご夫妻でいえば、允子妃は美術に造詣が深かったというから(庭園美術館の妃殿下寝室にあるラジエーターカバーは允子妃のデザイン)、ご夫婦で、つまり允子妃もアール・デコ博を訪れたことが、このアール・デコの粋を集めた館を生み出すのに重要な出来事であったのではないだろうか。
庭園美術館2Fのベランダは白と黒の市松模様になった国産大理石の床が印象的だ。朝香宮邸の頃は、殿下と妃殿下の居室からしか出入り出来なかった、ご夫婦専用のベランダであった。*写真はオープニングレセプション時に撮影。
1933年に竣工した朝香宮邸は、1947年の朝香宮家の皇籍離脱を受けて1954年までは当時の外務大臣・吉田茂の公邸として使用され、1955年から1974年までは白金迎賓館として、国賓、公賓を迎え入れた。1974年、赤坂迎賓館が開館した後には、民営の白金プリンス迎賓館として催事や結婚式の会場に利用され、1983年に東京都庭園美術館として開館する。このように所有者が変わったり、使途が変わったりするなかにあって、完成時の姿を大きく損なうことなく存在していること自体、奇跡的といえよう。
庭園美術館という位だから、庭園にも趣がある。西洋庭園、茶室と池を備えた築山林泉式日本庭園、来訪者の憩いの場である芝生広場と、エリア分けされた庭園部分は、四季折々の姿をわたし達に見せてくれる。現時点ではまだ整備中ということで、公開は先になるがその日を心待ちにしたい。
現在閉鎖中の庭園の一部。右手奥が日本庭園になっている。かつては芝生広場で遊ぶ親子の姿などがよく見られたが、リニューアル後はどのようになるのだろう。前掲の庭園美術館のベランダからは、日本庭園部分がよく見える。
庭園美術館の敷地は、朝香宮邸が建てられる以前、中世の頃は隣接する国立科学博物館附属自然教育園の敷地と合わせて豪族の屋敷があったとされている。江戸時代には高松藩主松平頼重の下屋敷、明治時代には政府の所有地となり火薬庫として使用された。火薬庫廃止後の1917年(大正6年)、宮内省に白金御料地として献納された同地は、1921年(大正10年)その一角を朝香宮賜邸地として割譲。朝香宮邸の敷地以外は1949年(昭和24年)に国立自然教育園として一般公開されることとなった(同時に天然記念物及び史跡に指定されている)。目黒通りから眺めるだけではなかなかピンとこないかもしれないが、自然教育園は20ヘクタール(6万坪)という広大な敷地を誇り、都心にありながら自然状態の常緑広葉樹林が広がっている。
自然教育園を左手に見ながら進むと、程なくして外苑西通りだ。昨今はプラチナ通りなどと呼ばれているこの通り、90年代前半頃までは、特に目立った店もなかったと記憶している。それが変わったのは「ブルーポイント」というカフェレストランが出来てからだろうか。私は1984年から1991年まで白金にある明治学院という学校に通っていた。今と違って、高校は男子校。制服も詰襟だった。当時、白金はこれといった商業施設もなく、地下鉄南北線も開通前だったため、静かな住宅地という雰囲気に満ちていた。大邸宅はあったが、小さな個人宅や商店も少なからずあり、取り立てて目立った特徴のない印象を持っていたのだが、プラチナ通りなどという名称が一般的になってきた頃(90年代の中盤以降だろうか)から、少し様子が変わってきた。このあたりを目指して来る来街者が増えたのである。2000年に開業した白金台駅も来街者にとっては好都合だった。日曜日の夕方に訪れた外苑西通り(プラチナ通りというのはどうもしっくりこないのでこう書く)は、人通りも少なく、落ち着いた雰囲気であったが、最近の賑わいぶりはどうなのだろうか。
クリスマスシーズンということもあり、イルミネーションでライトアップされた「ブルーポイント」。リニューアルやメニュー刷新などを行い、現在はアメリカ風の料理を出してくれるということだ。
目黒通りの日吉坂上の信号を右折し、八芳園、白金小学校を見ながら桑原坂を下る。かなり急勾配の坂である。道なりにゆけば明治学院に。通っていた頃にはなかった新しい校舎も出来ているが、チャペルや同窓会館、インブリー館などはそのままの姿を留めている。
高校時代、冬の体育の授業で「清正公(せいしょうこう)」というのがあった。簡単に言うと、学校の周り約2キロのランニングだ。校門を出て、桜田通りを北上し、目黒通りに当たったら左へ曲がり日吉坂上から桑原坂を下って再び校門前へ、というランニングのルートを、今回は徒歩で辿ってみた。
ヘボン式ローマ字で知られるJ.C.ヘボンが開いた「ヘボン塾」を淵源とする明治学院。写真左の建物は1889年(明治22年)頃に建てられた「インブリー館」、ネオゴシック様式の右の建物は1890年(明治23年)竣工の明治学院記念館だ。
歩いてみると、桜田通りの緩やかな傾斜が結構堪える。「清正公」という呼び名は、白金台一丁目の覚林寺の通称に由来するものだ。加藤清正の位牌が祀られていることにちなんで、古くからこう呼ばれているのである。とはいえ、必死に走っていた高校生のときの私はそんなことも考えられず、その謂れを知るのはもう少し後になってからだった。長距離走は苦手だ。
覚林寺は桜田通りからほんの少しだけ奥まったところにある、どちらかというとこぢんまりした印象のお寺。サイズでいえば本堂が大きいのだが、存在感があるのは断然清正公堂だ。暗くなる直前の時間に訪れたので「奉納」の文字が書かれた提灯の灯が不思議なムードを醸し出していた。
「清正公前」という信号の手前に目黒通りに出るショートカットがある。左側には木造二階建ての年季の入った建物。並びにあるちゃんぽん屋の脇を覗くと、かなり土地が低くなっている。後から調べてみると低いところには玉名川という川が流れていたそうだ。
目黒通りから目黒駅方面にゆくと、シェラトン都ホテル東京。ふと空腹に気づき、このシェラトン都ホテル東京のカフェに立ち寄ることにした。ちょっとキラキラしすぎなのは気になったが、天井が高くて落ち着くカフェだ。何より妙な音楽が流れておらず、無音なのがよかった。おかげでサンドウィッチとコーヒーの遅い昼食を気分よく摂ることが出来た。絶妙なタイミングでコーヒーを注ぎ足してくれるのも嬉しい。
清正公こと覚林寺は1631年(寛永3年)に創建された日蓮宗寺院。加藤清正を祀っているこの寺では、毎年5月4日、5日に「清正公大祭」を開催し、多数の来訪者で賑わいを見せる。このほか、山手七福神のひとつ毘沙門天も。
一息入れた後、目黒駅方面に歩き、庭園美術館とは逆側の歩道から脇道に入ると、目黒通りのあたりが非常に高くなっていることがわかる。白金台というだけのことはある。白金台駅あたりから南に下りてゆくと、かつての三田用水(現在は廃止)の流れに沿ってぐっと低くなっており、また山手七福神の福禄寿尊と寿老人尊が祀られている妙円寺に向かう坂道もかなりの傾斜だ。高校時代は大通りでなくこうした低所の裏道を通って目黒駅まで出ていたことを思い出した。今思えば、なかなか理にかなったルートであったのではないか。
目黒通り、白洋舎のところを南に入る脇道の様子。左に比べ、右の道が急な傾斜で下っているのがわかるだろうか。道幅もかなり狭く、大雨のときなどやや心配である。このあたりはこうした道が思いのほか多い。
ところで、白金、白金台はそれぞれ「しろかね」「しろかねだい」と読む。「しろがね」ではないのだ。これに倣えば、「シロガネーゼ」は「シロカネーゼ」となるのが筋なわけだが、いつどこで「しろがね」にすり替わってしまったのだろう。しかし、シロカネーゼと聞くと、どことなく風邪薬の有効成分のようでもあり、ちょっと可笑しい。表記のことについてもうひとついえば、東京都庭園美術館は英語表記ではTOKYO METROPOLITAN TEIEN ART MUSEUMとなる。「庭園」を英語にせず「TEIEN」とローマ字表記しているところからは、そこに日本庭園が含まれるニュアンスも伝わるし、朝香宮邸が宮内省内匠寮の職人の手によって建てられたことをも偲ばせる。
東京都庭園美術館リニューアルにあわせ、作家、音楽家、漫画家6名が寄稿したアンソロジー。庭園美術館、朝香宮家の歴史と他者の歴史を重ねた小林エリカのエッセイが白眉。「ピアノのための小組曲《三つの装飾》」と題した、阿部海太郎作曲の譜面も。/『庭園美術館へようこそ 旧朝香宮邸をめぐる6つの物語』朝吹真理子、福田里香、小林エリカ、ほしよりこ、mamoru、阿部海太郎(著)河出書房新社刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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