京橋―橋としての街
2015-02-10 10:35:00
一本の道でありながら、エリアによって随分と性格の異なる通りというのがある。銀座中央通りなどはその代表的な例だろう。新橋から北東に銀座八丁目、七丁目と進み、銀座通り口という信号を越えて東京高速道路の高架をくぐると、そこから先は中央区京橋となる。中央通りの銀座エリアはご存知のように高級ブランドの旗艦店、老舗飲食店などが立ち並ぶ東京随一のショッピングエリアだが、京橋に入るとがらりと雰囲気が変わるのがわかるだろう。ぱっと見ショッピングというよりは、オフィス街という印象である。銀座の目と鼻の先に位置する京橋には、これまで訪れたことがなかったが、とある映画の試写会会場が京橋であったため、この機会に街中を歩いてみることにした。
中央通りの銀座通り口から眺めた京橋。中央通りをまっすぐ行けば、日本橋川と日本橋に出る。写真左手の大きなビルはレストランやオフィスの複合施設「東京スクエアガーデン」。
地図で見ると正方形に近い長方形(北を上にした地図だとややいびつなダイヤ型)の中央区京橋は、一丁目から三丁目までというこぢんまりした街。南西側の端つまり銀座と接している側は東京高速道路、日本橋と接する北東側は東京駅八重洲口から延びる八重洲通り、八丁堀との境目は首都高速都心環状線、東京駅寄りの北西側は八重洲柳通りという細い道に囲まれている。銀座「煉瓦亭」で昼食を済ませ、中央通りから京橋に入ると、かつての京橋の親柱が目に入ってきた。
現在の東京高速道路のルートの下には京橋川という河川が流れていた。江戸城外濠から水を引いて楓川、桜川へと流れ込む人工の開削運河である。江戸時代、この京橋川には、外濠側から比丘尼橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かっていて、それぞれの橋のあいだの河岸では様々な物資の荷揚げがなされていた。中之橋と京橋のあいだの西河岸には、外濠の数寄屋河岸にあった青果市場が焼失により移転してきた。ここでは野菜、とりわけ大根の荷揚げが多かったことから「大根河岸」と呼ばれ、関東大震災後の築地中央卸売市場完成までは稼働していたという。また、大根河岸と同じ側、京橋と白魚橋のあいだには竹を扱う商人が多く「竹河岸」と呼ばれていた。この両河岸の名称は、現在も通りの愛称として残されている。
かつての京橋に使われていた親柱は、記念碑として三本が
中央通りを隔てた交番の横にも明治8年の親柱が。江戸時代の伝統を受け継ぐ擬宝珠(ぎぼし)の意匠を採用したもので、詩人・佐々木支陰の書による文字が彫られている。
こちらは1922年(大正11年)の橋の親柱。上の写真の交番の屋根はこの意匠を踏襲している。京橋の歴史は日本橋が架けられたのとほぼ同時期で、江戸時代は木製であった。
京橋川の河岸で商いが行われていたことを考えると、現在のオフィス街という印象も頷けるが、京橋には古美術商も多い。京橋一丁目から日本橋三丁目あたりまでの古美術店の数はざっと150店にも及ぶというが、昭和通りの一本西側の「骨董通り」と呼ばれる通りに多くが集まっている。中央区観光協会のホームページによれば、「戦前この地域に進出した企業等の応接間等に飾る古美術や骨董等のニーズが高まり」現在のような姿になったということである。ウインドウを眺めてみると、なるほどいかにも昔の応接間や社長室にありそうな、どっしりと風格のある作品が大事そうに飾られているのがわかる。春と秋には、より多くの方に古美術に親しんでもらおうと骨董まつりが行われているそうだ。また、古美術店に交じって小さなギャラリーなども点在するし、中央通りと八重洲通りの交差点には、ブリヂストンの創業者・石橋正二郎のコレクションから出発した「ブリヂストン美術館」もあるので、ゆっくり歩いてみてはいかがだろうか。
美術の話題が出たところでもうひとつ。京橋には初代歌川広重(安藤広重)の住居があった。江戸時代末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)は1849年(嘉永2年)から亡くなるまでのあいだ、現在の京橋一丁目九番に住まいを構え、晩年の代表作「名所江戸百景」をこの地で制作したということである。
京橋には、歌川広重の住居跡(といっても看板だけだが)のほか、「江戸歌舞伎発祥の地」の碑もあり、美術や芸能とも浅からぬ関係にあったことが分かる。
お隣り銀座のような華やかさや潤沢さはないものの、京橋にもいわゆる老舗は少なくない。果物専門店「京橋千疋屋」は1881年(明治14年)だし、隣接する左官道具や刃物を扱う「西勘本店」はなんと1854年(安政元年)。このほか、1892年(明治25年)創業の天婦羅「天七」、1937年(昭和12年)創業で宮内庁御用達を謳う「ニコスコーヒー」(コーヒーショップは1996年にオープン)などがある。なかでも街の顔として長年親しまれてきたのが、明治屋京橋ビルだ。1885年(明治18年)、磯野計により創業された明治屋の本社屋として明治屋京橋ビルが建ったのは1933年(昭和8年)。慶應義塾大学図書館、小笠原伯爵邸などを手がけた曾禰中條建築事務所が設計を担当した。このビルについてはイタリア・ルネサンス様式と紹介されているものが多いが、設計された時代を考えるとネオ・ルネサンス様式という印象もある。ともあれ、鉄骨鉄筋コンクリート造のスクエアでシンメトリカル、それでいて装飾性も兼ね備えたこの建物は、いま見ても優れた意匠である。
ところで、2013年、この明治屋京橋ビルを含む一帯の再開発工事が始まった。中央通りと八重洲柳通りのあいだ、約1ヘクタールの区域を超高層化するというプランで、完成すれば約170メートルの高さのビルとなる。今回の再開発では、明治屋京橋ビルのファサードだけ残すのではなく、ビルまるごと保存するということで、この歴史的建造物は今後も存続するというから何よりだ。併せて免震工事を行うということである。
明治屋京橋ビルは現在仮囲いをされ休業中。この後ろ側では巨大クレーンが動き、高層ビル建設が行われている。明治屋京橋ストアーは今秋営業再開予定とのこと。
中央通りの銀座通り口を越えると雰囲気が変わると冒頭に書いた。これには川の存在が関係しているだろう。川には古くからあちら側とこちら側を隔てる意味合いがあるのはよく知られたところだが、そのあちら側とこちら側の世界を双方から垣間見れるのが橋である。600メートルほどの短い開削運河である京橋川には、江戸時代には五橋、明治時代以降、川が埋め立てられる前までは六橋が架けられていた。仕切られてはいるけれど、行き来は難しくない。江戸の金座(日本橋)、銀座のあいだに位置する京橋地区は、それ自体が双方の経済や文化をつなぐ大きな橋のような役割であるように思われる。志賀直哉「小僧の神様」の初出は1920年だが、そのなかで江戸時代頃から続いていると思しき老舗の秤屋の小僧・仙吉と貴族院議員Aが最初に出会うのは京橋の屋台の鮨屋だった。職人の世界の人間と、銀座方面からやってきたハイカラな上流階級人とが京橋で交わるという設定は、そう考えるとなるほどよく出来ている。
現在の銀座が華やかであるがゆえ、京橋はオフィス街という印象が強かったが、先にも述べたように、銀座と日本橋をつなぐような存在である。川と橋は、ちょうどフィルターのような作用を果たし、銀座の派手な部分をうまく削ぎ落としていたのではないだろうか。こぢんまりした街のサイズ感も相まって、都心でありながら落ち着きのある雰囲気を味わえるのも京橋の魅力のひとつである。
本稿で触れた「小僧の神様」を含む、志賀直哉の短編集。「小僧の神様」は秤屋の小僧・仙吉に貴族院議員Aが鮨をご馳走したことによる両者の心の変化を描いた作品。この他「城の崎にて」「流行感冒」など名作揃いだ。/『小僧の神様・城の崎にて』志賀直哉(著)新潮文庫刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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