北品川―見えない海が見える街│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

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BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#029

北品川―見えない海が見える街

2015-03-13 17:42:00

映画『幕末太陽傳』といえば、落語「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」といった落語が下敷きになっていることはよく知られたところである。外枠は「居残り佐平次」から採用し、その内部のエピソードとしてほかの落語を配するというメタ構造のこの作品は、2012年にデジタル修復を経て再公開されたので、ご覧になった方もおられるのではないだろうか。元々は1957年公開作品。監督は川島雄三、主演はフランキー堺である。
この『幕末太陽傳』の舞台は「土蔵相模」という妓楼。正式名称は相模屋だが、土蔵のようななまこ壁だったことからこう呼ばれた。1862年(文久2年)、御殿山に英国公使館が建設されるのに際し、攘夷派の高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(井上馨)らが公使館焼き討ちを画策したのが、この土蔵相模である。
宿場町としての品川は、現在の品川駅とは少し離れた京浜急行の北品川駅近くから始まる。八ツ山橋から北品川駅方面にゆくと、旧東海道の入り口。ここからが品川宿だ。では、どこまでかというと、青物横丁駅のあたりまで。元々は目黒川を境に北品川本宿、南品川本宿と分けられていたが、後に北品川本宿の手前に徒歩新宿(かちしんしゅく)が新設され、三宿となった。
この品川宿はまた、私娼を擁するいわゆる岡場所でもある。「江戸に近い新宿、品川、千住、板橋の娼家は、東海道、中山道等の宿屋と共に旅店と称して、遊女でない、飯盛女を貯えていたのである」(稲垣史生『三田村鳶魚 江戸生活事典』より)。品川は、公娼である吉原とも肩を並べるほどの賑わいだったそうで、前出の『江戸生活事典』によれば享保7年には旅籠屋94軒に対して500人の飯盛女がいたということである。品川の岡場所としての顔は1958年(昭和33年)の売春防止法施行による赤線廃止まで続いたが、「明治の文明開化で品川は大きく変化する。新橋ー横浜間の鉄道敷設がかつての宿場町を無用の長物とする。鉄道は宿場を素通りして行った。廓だけは残ったがさびれる一方」(種村季弘『江戸東京《奇想》徘徊記』「品川逍遥」より)だったということである。ちなみに京浜急行の北品川駅は、1925年(大正14年)に高輪駅へ路線延伸されるまでは、品川駅という名称であり、1933年(昭和8年)に高輪駅が廃止され、国鉄(現JR)品川駅への乗り入れが開始されると、乗降客も減少し、現在は東京都内の京急の駅では最少乗降数となっている。

image2 『幕末太陽傳』の舞台となった「土蔵相模」跡地に立つ札。現在はマンションで、その前は「さがみホテル」。さがみホテルのファサード、看板は『幕末太陽傳』のオープニングにて確認出来る。

北品川駅の出口はひとつ。国道15号線(第一京浜)側にしかない。国道を挟んで向かいには、第三北品川病院と品川女子学院。あとはこれといって目に付くものはないのだが、今回用があるのは線路を渡った反対側なので、まずは踏切を越え、商店街に出る。北品川本通り商店会だ。この北品川本通り商店会から、北品川商店街、品川宿場通り南会、そしてそこに連なる青物横丁商店街から刑場のあった鈴ヶ森までが東海道品川宿の範囲。今も往時の東海道と同じ道幅が続いている。
一見、何の変哲もない商店街といった面持ちの北品川本通り商店会だが、そこここに立て札や碑がさりげなく存在している。先の土蔵相模の跡地や、東海禅寺の住職、沢庵宗彭と徳川家光との問答を記した板書「問答河岸由来記」などがそれだ。

image3 板書「問答河岸由来記」。この問答は河岸まで家光を送ってきた沢庵和尚に家光が「海近くして如何か東(遠)海寺」と問い、「大軍を指揮して将(小)軍というが如し」と沢庵が答えたものだ。

問答河岸というからには、岸でなければならぬ。これはかつての東海道が海沿いの道であったことを物語っているのである。現在、その面影を残しているのは土蔵相模跡地を少し越えて左に曲がったところにある「品川浦舟溜まり」。屋形船が浮かびまわりをいくつかの船宿が取り巻く品川浦は、お世辞にもきれいとはいい難いが、それでも昔の品川の姿を思い起こさせる貴重な存在といえるだろう。「品川心中」で桟橋から海に突き落とされる金蔵(『幕末太陽傳』では小沢昭一が怪演)は、品川の海が遠浅だったため死なず、八ツ山から這い上がって家に帰った。「品川心中」は白木屋という貸座敷(一説には実在した「島崎楼」がモデル)が舞台であったが、これも旧東海道の妓楼の裏手に海が存在していたことを窺い知ることができるエピソードである。

image4 屋形船などが停泊する「品川浦舟溜まり」。旧目黒川の河口の名残が水路として残っていて、かつての姿を忍ばせる。品川浦は海苔の主要な産地であり、また魚もよく獲れた。

海に向かってゆくアプローチは、どこの街であっても独特の雰囲気がある。緩やかな勾配の細い道を下ってゆくと目前に海が広がっている、というあの感じである。今や至近に海こそないが、旧東海道から東に入る路地を注意深く見ると、確かにそういった印象があることがわかる。よく日に焼けた子供たちが嬌声を上げながら走り抜ける、そんな姿が脳裏に浮かんだ。

image5 旧東海道から東側に抜ける路地は、海だった方に向かって緩やかな下り坂になっている。現在、この先に海はないが、例えば鎌倉あたりでもこうした路地を見かけることがあるだろう。

さて、旧東海道に戻ろう。ごく普通の商店街のようだ、と前に記した。コンビニやスーパーもあるし、マンションなどもある。しかし、こちらもよく見れば相当な年月を経過していると思しき建物が実に自然に軒を並べているのである。例えば、「居残り佐平次」にも出てくる鰻屋「荒井家」の建物を使用している居酒屋「居残り連」、やや時代は下るが煉瓦と銅板のモダンな組み合わせが目を引く「星野金物店」、創業は慶応元年という町屋造りの「丸屋履物店」(建物は大正時代の木造建築)などがそう。また、旧東海道沿いの商店街では、現代的なものだけでなく、昔ながらのものを商っている店も少なくないので散策も楽しい。

横丁、路地がたくさんあるのも北品川の特徴のひとつだ。清水横丁、大横丁、虚空蔵横丁など名のついた横丁には立て札が立てられているが、それ以外にも横丁と横丁をつなぐような路地がある。横丁の突き当たりには寺や神社があることが多い。龍の鏝絵が有名な1294年開山の善福寺、芝増上寺の末寺として1384年に開創された法禅寺などなど、品川宿は寺、神社の街という印象を強くした。
北品川本通り商店会、北品川商店街を、ちょくちょく横丁に入りながら進んで、ようやく目黒川に架かる品川橋まで来た。品川橋は江戸時代には中の橋、あるいは境橋と呼ばれ、文字通りここを境に北本宿と南本宿が分けられていた。ここで目黒川を橋ひとつ分上流にゆくと、右手に荏原神社がある。荏原神社は南品川の鎮守様。創立は709年(和銅2年)という歴史のある神社だ。龍神を勧請し、祈雨、止雨、農業繁栄、夫婦和合などのご利益があるこの神社の現在の社殿は1844年(弘化元年)のものだそう。境内には寒緋桜が満開で、花の芯をメジロがついばみに来ていた。

image6 南品川本宿の鎮守様、荏原神社。源氏、徳川、上杉といった武家の信仰を受けて現在に至っている神社である。写真左三分の一中央あたりににょきっと出る龍の首は雨樋の役目を果たしているとか。

南の鎮守様を訪れたら、北の鎮守様にも足を運ばねばなるまい。目黒川を遡り、第一京浜と山手通りの交差する北品川二丁目から品川神社を目指した。
1187年(文治3年)、源頼朝が安房国の洲崎明神である天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称したのが品川神社のはじまり。昇り龍と下り龍の彫刻を施した石鳥居をくぐり、53段の階段を上るとやや遠くに拝殿が見える。境内には東京都指定文化財(無形民俗文化財)である太々神楽を執り行う舞台もあって、見どころ満載である。

image7 第一京浜から立派な石鳥居をくぐって階段を上ると品川神社の境内。6月に行われる品川神社例大祭は「北の天王祭」と呼ばれ、この階段を神輿が上り下りするという北品川の名物のひとつだ。

拝殿に向かって右手には朱の鳥居が連なっている。阿那稲荷神社だ。ここには上社と下社があって、それぞれ天の恵みの霊と地の恵みの霊が祀られているという。上社はわりあいオーソドックスな面持ちだが、そこから下り坂となっていて(またここにも鳥居が連なる)下社がある。地の恵みの霊を祀っているからだろうか、穴倉のような造りになっていて、明らかに空気が違う。ひんやりとしているのだ。この下社には「一粒萬倍の泉」があって、ここでお金や印鑑を洗ったり、水を持ち帰って店の四隅入口に注いだり、洗ったお金の一部を門前の商店街で使ったりするとよい、とされている。毎度のごとく下調べせずに訪れていて後から知ったが、ここはパワースポットとしても有名な神社。空気が違うと感じたのは強ち間違いではなかったようである。

image8 阿那稲荷神社の上社を出て下社に向かう鳥居と下社。下社中央の入口を入って左手に「一粒萬倍の泉」がある。このあたりの神社仏閣のなかでも格段に静けさが漂う異空間である。

品川神社でもうひとつ興味深いのは、富士塚があることである。この富士塚は「品川富士」と呼ばれ、ご本家同様5合目までは登りやすく、それより上は険しい道のりとなっている。これを造った丸嘉講(富士山信仰の団体のひとつ)のひとびとによって、今もなお7月1日の富士山の山開きに合わせた「品川神社富士塚山開き行事」が行われており、富士塚は品川区有形民俗文化財に、品川神社富士塚山開き行事は品川区無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。高台の上にある高さ15メートルほどの都内最高峰の富士塚ということで、頂上に出ると東京湾方面を高みから見渡すことが出来る。今は見えるはずのない品川の海が見えた気がした。

image9 品川富士の7号目の碑。一番高い岩の向こう側が頂上で、山頂は平らになっている。品川神社そのものが高台にあるので、頂上からの見晴らしもすこぶるよい。途中には「浅間神社」も。

帰路は品川神社への参道となっている北馬場通りから再び旧東海道に出るというルートで北品川駅に向かった。電車に乗る前、改札のすぐ近くつまり第一京浜沿いにある喫茶店の存在に気づき、入ってみることにした。ご年配の女性がおひとりでやっている。コーヒーを注文して、それを啜りながらいくつか伺うと、もう50年ほどこの場所で商売をしていること、昔は喫茶店ではなくスナックのような店で女性従業員もいたこと、今は自分ひとりでこの店をやっていることなどが分かった。「商店街の方もビルばっかりになっちゃってねぇ」と仰っていたので「いやぁ、他の街に比べたらまだまだ残っている方ですよ」と返した。もう少しお話しを伺いたかったが、あまり長居は申し訳ないと思い、早々に切り上げ「ごちそうさまでした」と店を後にし、改札を抜けてホームに出た。
『幕末太陽傳』で、金蔵が死に損ない、相模屋の放蕩息子、徳三郎と女中おひさが舟の上で石原裕次郎扮する高杉晋作によって仮祝言を挙げた品川の海はもうないが、北品川にはまだその気配が少しだけある。ちなみにこの映画、一度実際に旧東海道を歩いてから観ると、色々リアリティがあってより楽しめるはずである(精密なセット撮影だが)。



江戸文化研究家、三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)が著した、約3000項目にも及ぶ江戸市井町家の風俗を事典形式にまとめた一冊。旅、商売、四季の遊び、遊郭、岡場所など、江戸町人の生活をあらゆる角度から知ることが出来る。/『三田村鳶魚 江戸生活事典』稲垣史生(著)青蛙房刊

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青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

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