自由が丘―自治こそが自由
2015-05-13 11:00:00
どちらかというと方向音痴である。連載30回目にして何を言うか、という向きもおられるであろう。正確に言うと、まるで方向音痴なわけではなく、一向に位置関係が頭に入らない街がいくつかあるだけだ。なので「どちらかというと」となる。位置関係が把握出来ない主な理由は自分でもわかっていて、まず駅の出口が東口と西口(あるいは北口と南口)の二つ以上になるとどうもいけない。渋谷や新宿はさすがに小さな頃から見知っているので問題ないが、自由が丘などは、何度訪れても全貌がよくわからないのである。わからないならわかるまで歩いてみようじゃないか。そういったことで、今回は自由が丘だ。
五月晴れとはよく言ったもので、やや風は強いが清々しい日差しが心地よい5月のとある午後。いつもなら、1948年(昭和23年)創業という南口からすぐの古書店「東京書房」に直行するのだが(改札のほぼ並びだからここへは迷わずに行ける)、この日は正面口から攻めることにした。
正面口に出ると、やけに賑やかだ。見れば駅前広場にステージが組まれていて「Jiyugaoka Sweets festa! 2015」の文字が描かれたピンクのパネルが立っている。どうもなにかのイベントらしいが、ここに留まっていては仕方がない。まずは自由が丘デパートの方へと歩いていった。自由が丘デパートの軒先にも縁日のように出店が連なり、かなりの人出がある。ここはデパートとはいうものの、イメージとしては「ニュー新橋ビル」をコンパクトにしたような、雑多なバザール感のある建物だ。こちらも東京書房と同じく1948年(昭和23年)からその歴史をスタートさせている。
関東大震災を契機に、阿佐ヶ谷や荻窪に小説家、詩人などが移り住んで、いわゆる阿佐ヶ谷文士村を形成したように、自由が丘にも戦後、文化人、芸術家による「自由が丘文化村」なるものがあった。石坂洋次郎、石川達三といった小説家、作曲家の伊福部昭、舞踊家の石井漠といった人々が自由が丘周辺に住まい、そこから自然発生的に「文化人会」というものが発足し、この文化人会は以後30年ほど続いたということである。
自由が丘は東京大空襲で被災し、かなりの焼失があったということだが、戦後いち早く立て直しを図り、昭和23年頃にはずいぶんと復興を遂げた。自由が丘デパートの並びに建つショッピングアーケード「ひかり街」が出来たのも昭和23年である。
正面口を出ると駅前広場が。地元の地主が資金を出し合い、1950年(昭和25年)から工事がはじまったという。彫刻家・沢田政広が制作した女神像は1961年(昭和36年)に完成。
自由が丘デパート、ひかり街を横目に見ながら女神通りを進む。店名に違わずモンブランが有名な老舗洋菓子店「モンブラン」もこの通り沿い。女神通りの奥の方には細い横丁がいくつかあって、雑然とした雰囲気がいい。ひかり街の端のところまで来て左に折れ、最初の十字路を右へ。しばらく行くと右手に古い日本家屋があった。「古桑庵」という茶房兼ギャラリーだ。建物は大正末期に建てられたそうで、当時の家主であった渡辺彦と小説家で夏目漱石の長女・筆子の婿でもある松岡譲が隠居後の楽しみにと茶室作りを計画。松岡の郷里である長岡から古い桑材を取り寄せて設えたのが、茶室「古桑庵」である。現在のように茶房兼ギャラリーとなったのは1999年(平成11年)。展示のほか、落語会なども開催されているという。
このあたりまで来ると、住宅街といった印象が強くなるのに加えて、緩やかな坂道が続くことに気づく。一旦、目黒通りまで出て左に曲がり、学園通りを南下してゆくと右側に見えてくるのが「自由ヶ丘学園高校」だ。
元々、この界隈は「谷畑」という字名(荏原郡碑衾町大字衾字谷畑)の農業地帯であったが、1927年(昭和2年)8月に東急東横線が開通。現在の自由が丘駅にあたる「九品仏前駅」が設置される。同年11月、自由教育を理念に掲げる手塚岸衛が谷畑の大根畑の丘に学校を設立した。これが「自由ヶ丘学園」、現在の自由ヶ丘学園高校である。2年後、大井町線が大岡山から二子玉川まで延長されることとなったのに際し、九品仏浄真寺の表参道口に「九品仏駅」が設置されたことで、東横線の九品仏前駅は改名することとなった。電鉄側では「衾駅(ふすまえき)」を新駅名とすることが内定していたが(九品仏前駅=自由が丘駅は、衾池という池を埋め立てて作られている)、早い時期からこの地に移り住んでいた舞踊家・石井漠ら文化人の熱心な要望により、最終的に「自由ヶ丘駅」となったのである。
新駅名が決まると、近隣住民らは郵便物の住所に「自由ヶ丘駅前◯番地」と記すようになり、地名として浸透。地名改正の声にまでなった。これを受けて衾西部耕地整理組合が地名改称を申請し、1932年(昭和7年)6月、碑衾町自由ヶ丘と認可され、同年10月の東京市域拡張による目黒区の成立のときにもそのまま東京市目黒区自由ヶ丘となった(1965年の住居表示施行により自由が丘と表記するようになる)。つまり学校名から駅名、そして地名というかたちで広がっていったのだった。
自由が丘の地名の元となった自由ヶ丘学園の現在。当初は幼稚園なども併設されていたが1959年(昭和34年)より男子高校に。このあたりは丘になっていて、駅の方はやや低くなっている。
学園通りから脇道に入りつつ、再び駅方面へと歩みを進めると、飲食店の多さに改めて驚く。もちろんチェーン店も少なくないが、ちょっとした横丁では個人店も元気がいい。ジャンルのバラエティが多いのも特徴のひとつである。それから、1987年にオープンした「キャトル・セゾン」の日本第一号店をはじめとする家具や生活雑貨を取り扱う店。キャトル・セゾンの印象からか、どこか日本的なフランス趣味というイメージの店が多いように思っていたが、質実剛健なハンドメイドの家具を扱う店もあって、こちらも予想以上にバリエーションがある。ファッションもそう。アヴァンギャルドなものこそあまり見かけないが、渋谷や原宿に店を構えるショップの路面店もあれば、何十年もこの地で営業を続けている洋装店もある。つまり大体のことはこの街でまかなえてしまうのである。とりわけ、世間の流行とうまく距離をとって情報に踊らされない人にとっては、勘を頼りに店を選ぶ楽しさが、自由が丘にはあるのではないだろうか。
自由ヶ丘学園の向かいにある「自由ヶ丘ソーワアイス」。ソーワアイスは1955年(昭和30年)神谷町に創業した。ここは神谷町工場併設の本店の姉妹店として2011年(平成23年)にオープン。
駅前広場まで戻って、大井町線の踏切を渡って南口へ出ることにした。南口には、1974年、九品仏川を暗渠化して整備した九品仏川緑道がある。この緑道の両側には様々な業種の店舗が立ち並ぶが、自由が丘のなかでは比較的新興のエリアであろう。緑道にはベンチが置かれ、休日ともなれば憩う人、語り合う人で賑わっている。この九品仏川緑道とほぼ平行に一本駅寄りの通りがマリ・クレール通り。冒頭に記した東京書房もこの通りにある。かつては「とうきゅう通り」と呼ばれていたこの通りだが、1982年、フランスのファッション誌『マリ・クレール』の日本版創刊に合わせてマリ・クレール通りとなった。こう書いてしまうとその名前は取ってつけたような印象になってしまうのだが、当時商業地区として拡大傾向にあった自由が丘にあって、商店街振興組合は無軌道な開発、出店を回避し、なおかつ来街者増を考えなければならなかった。そこで、ファッショナブルであり上質なイメージを打ち出すべく、フランス本国および日本の版元、そして在日フランス大使館の協力を得て、日本版『マリ・クレール』誌との連動を図ったのであった。
ことほどさように、自由が丘という街は商店街振興組合と住民の手により形づくられ発展した。こうした長年の功績は、平成24年度都市景観大賞 都市空間部門の大賞を受賞したことからも窺い知ることが出来るだろう。この都市景観大賞の審査委員長を務めた建築史家の陣内秀信は「大改造の手段は一切なく、様々な表情をもつ既存の狭い街路、路地など、その小さな空間の特徴を活かしながら丁寧に誘導、整備し、デザインし直すことで、歩いて楽しい回遊性のある都市空間と、変化に富んだ魅力的景観をつくり上げている」(国土交通省ホームページ内、平成24年度都市景観大賞「都市空間部門」受賞地区の概要及び「景観教育・普及啓発部門」受賞団体の活動の概要より)と評価している。なるほど、洒落たイメージを打ち出す通り、古くからあるバザール的な匂いのデパート、「美観街」という通りの名がかえって面白い猥雑な飲み屋街など、多彩なバリエーションを持ちながらもそれを横断的に楽しむことが出来るのは、画一的な開発を退け、自治の精神で街を育てているからに他ならない。自治こそが自由なのだ。
はじめに自由が丘は位置関係が頭に入らずよくわからないと書いた。これはつまり通りごとに異なる表情を見せる街にいつもしてやられているということだ。巡る道順によって、知っているはずの建物、街角が違った顔になる。これこそがこの街の面白いところではないだろうか。
和やかな風情の九品仏川緑道。歩行者優先にするためのベンチの配置実験を行い、現在のようなかたちになったという。大井町線緑が丘駅と九品仏浄真寺をつなぐ約1.6kmの緑道である。
日暮れる前に熊野神社に立ち寄ろうと思い、緑道から再び踏切を渡り、飲み屋街「美観街」を通って向かった。境内でマーケットでもやっていたらしく、出店者が後片付けをしていた。お参りを済ませ、駅に戻ろうと熊野神社の向かいの細い路地に入っていったのだが、その路地の片側に占いの店や寿司屋、日本料理屋などが並んでいて、いかにも街中の神社という雰囲気が感じられた。鎌倉時代にこの地の村人が那智熊野神社の分霊を勧請して創建したというから、聖俗が近しくても何ら不思議ではない。突き当たって右に曲がり、次の十字路を左、また突き当たった斜め右前方の路地に入っていくと、この道の突き当たりにさりげなく鳥居が立っていた。鳥居の足元では近くの飲食店で働いていると思しき人がiPhone片手に座って休憩をとっていた。
ちょうど洋菓子店「モンブラン」の裏手あたりにある細い路地の鳥居。これをくぐって北の方角に進めば(一直線ではないものの)熊野神社の前に出る。賑やかな表通りとはまた違った表情だ。
自由が丘の「文化人会」にも名を連ねた作家、石坂洋次郎が読売新聞紙上に連載していた小説。自由が丘のすぐ隣、目黒区緑ヶ丘が舞台となっている。後に石原裕次郎主演で映画化もされた。/『陽のあたる坂道』石坂洋次郎(著)角川文庫刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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