落合、中井界隈―落合文士村の面影を辿る
2015-06-19 15:30:00
ここ数年、いくつかの大学で講義を行っている。特別講義ではなく、通年の授業の一コマとして持たれるもので、半期ごとに3、4校といったところだが、この前期は初めてお邪魔する大学があった。目白大学である。目白大学の最寄りは西武新宿線の中井駅。この駅も下車したことがなかったが、こぢんまりした駅のすぐ近くを妙正寺川が流れる、なんとも雰囲気のいい駅前だ。このときはあまり時間もとれず、駅と学校の往復に終わってしまったので、後日改めて訪れることにして、西武新宿線に乗った。
梅雨の合間の晴れた日、再び中井駅に向かった。西武新宿線の各駅停車しか停まらないが、高田馬場駅でせいぜい1、2本の電車を見送ればいい。高田馬場を出て、下落合駅の次が中井駅。所要時間は5分ほどだろうか。先にも述べた通り、こぢんまりとした駅である。一箇所しかない出口から右に折れるとすぐに寺斉橋で、その下を妙正寺川が流れている。簡単にこのあたりの位置関係を説明しておくと、新宿区中井は南と西の端は妙正寺川を境に、それぞれ新宿区上落合と中野区上高田に隣接している。北側と東側は新宿区中落合。地勢的には妙正寺川流域の低地と、豊島台地の南端からなるエリアである。
中井駅すぐそばの寺斉橋から見た妙正寺川。右手の建物と川のあいだが細い道になっていて、人通りは多い。やや進んで左手には新宿区立落合第五小学校が。
駅から中井エリアの中心に向かうのは、やや複雑な道のりだ。というのも駅の出入り口の背後に、線路を跨ぐようにして山手通りと首都高速中央環状線が走っており、これをくぐっていかねばならないのである。寺斉橋の手前を川沿いに右に曲がり、山手通りの高架下を通って、川と線路に挟まれた細い道を進むと右手に踏切が見えるので、これを渡る。そのまま直進すると、中井通りに出る。このあたりから本格的な(?)中井だ。
中井通りは、豊島台地の崖線下に沿ったかたちで走っている道路。そのため、豊島台地側(北側)に向かっていくつかの上り坂があり、それらはそれぞれ10メートル前後の高低差を有している。こうした坂のひとつ、四の坂のふもと付近にあるのが「林芙美子記念館」である。
緑豊かな庭を有する「林芙美子記念館」。中井通りから四の坂を少し上った左手に入り口がある。記念館内は写真撮影可能(三脚などの使用は不可)。虫刺されに注意されたい。
『放浪記』『清貧の書』『浮雲』などで知られる作家・林芙美子(1903-1951)は、1922年(大正11年)に上京し、関東大震災のとき尾道などに一旦疎開するも、1924年再び上京。1930年(昭和5年)より落合界隈に暮らすようになる。
「私は、和田堀の妙法寺の森の中の家から、堰のある落合川のそばの三輪の家に引越しをして来た時、はたきをつかいながら、此様なうたを思わずくちずさんだものであった。この堰の見える落合の窪地に越して来たのは、尾崎翠さんという非常にいい小説を書く女友達が、『ずっと前、私の居た家が空いているから来ませんか』と此様に誘ってくれた事に原因していた」(林芙美子「落合町山川記」)。
文中にある三輪の家とは、新宿区ホームページによれば、落合町大字上落合三輪850という住所。同ホームページを見ると尾崎翠(1896-1971)の住所は落合町大字上落合としか記載がないが、林芙美子記念館近くにある「落合に住んだ文化人」という案内板からは番地の記載こそないものの、同じ道の文字通り目と鼻の先に住んでいたことがわかる。尾崎翠は1927年(昭和2年)から1932年(昭和7年)のあいだ、落合に住み「アップルパイの午後」「第七官界彷徨」「地下室アントンの一夜」などを発表したが、1931年頃から頭痛薬ミグレニンの中毒、副作用による幻聴、幻覚に悩まされ、1932年、落合を離れ故郷の鳥取に戻り、二度と落合に帰ってくることはなかった。
林芙美子は尾崎翠が縁で落合に越してきたことで、吉屋信子、板垣直子、神近市子らとも親交を持つようになり、「尾崎さんが鳥取へ帰って行ってから間もなく、私は吉屋さんの家に近い下落合に越した」(同前掲)。下落合の家は、洋館の借家で中井通りの五の坂と六の坂のあいだあたりにあった。かなりモダンな建物だったようで「誰かが植民地の領事館みたいだと云った」(同前掲)そうである。その後、1939年(昭和14年)に土地を購入し建てた家が、現在の林芙美子記念館となっている日本家屋だ。
林芙美子記念館近く、中井通りにある「落合に住んだ文化人」の案内板。本文で参照した新宿区のホームページ(PDF)はこちら。区の登録史跡になっているものはその記載がある。
前に住んでいた洋館とは180度異なるこの日本家屋を建てるにあたって、林芙美子は自ら建築の勉強をし、設計者である山口文象(若くして数寄屋橋、清洲橋、八重洲橋などのデザインに携わり、のちにグロピウスに学ぶ日本のモダン建築家)や大工を引き連れて京都の民家を見学に行ったりしたというから、その熱の入れようは推して知るべし、である。結果、出来上がったのは、京風の数寄屋造とおおらかさのある民家の趣が混ざり合った建物であった。
入場料150円を払って敷地に入ると、二つの建物がつなぎ合わさっていることがわかる。建坪の制限という事情から、当初は林芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・手塚緑敏名義のアトリエ棟を別々に建てて、のちにつないだということだ。この家は第二次世界大戦の空襲も逃れたが、林芙美子は、ここでその生涯を終えた。
記念館のアトリエ展示室では「芙美子のカワイイもの」と題して、林芙美子の愛用品を紹介していた。写真のパンプス、ハンドバッグのほか、アクセサリー類も。
林芙美子記念館を出て、四の坂を上ってゆく。上り切って、住宅街を脇道に逸れつ戻りつさらに進んでゆくと「中井出世不動尊」があった。さほど大きい敷地ではなく、実にさりげない佇まいではあるが、新宿区有形文化財に指定されている、江戸時代の遊行僧・円空作の不動尊像が祀られている。この不動尊像は明治時代の後期までは中井御霊神社の別当不動院にあったそうだが、1914年(大正3年)、この地に安置された。時節柄、庭の紫陽花がよく咲いていた。
住宅街の街角にある「中井出世不動尊」。不動明王、矜羯羅童子(こんからどうじ)、制咤迦童子(せいたかどうじ)という円空作の不動尊像があるのは都内ではここだけ。
ここから西の方へ行けば目白大学方面だろうとあたりをつけて進んだところ、無事、目白大学併設の目白研心中学校の前に着いた。方角をイメージしながら学校の敷地沿いに南下すると、ちょうど大学の正門のところで坂上通りに出る。中井通りが豊島台地の崖線下である一方、こちらは崖線上。つまり中井通りから坂上通りに向かって上り坂になっているのである。坂上通りを西進すると、ふたたび中井通りとそれに並走する妙正寺川が見えてくるが、川の方まではかなり下ってゆくことになる。こちら側も豊島台地の極なのだ。
坂上通りを下りきるあたりに「坂上通り(バッケの坂)」という標識が立っている。標識には「この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のバッケが原への近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた」という説明書きが。「バッケ」とはなにか。調べてみると落合第二地域センターのホームページに「なつかしのバッケの原」というPDFがあった。1935年(昭和10年)頃の写真も載っているこのPDFは、落合第二地域センター広報誌「おちあい」105号に掲載されたもののようで、これに「バッケ」の由来が書かれている。
これによると、「『バッケ』は一面の『くさっぱら』」であり、「中井台地崖下は『バッケ』の語源『水の流れ落ちる所』のとおり、豊かな水流がありました」ということである。また、「今も変わらず流れる妙正寺川の川筋『葛橋』付近を『塚田』といって、この名は某氏の古墳があったからと伝えられています」とも。
坂上通りの標識と、前記のPDFの内容を合わせてみると、坂上通りから妙正寺川へと下ってゆく傾斜部分が「バッケ」、崖下の平地部分が「バッケが原」ということになろうか。
そういえば「落合町山川記」にも、バッケに関する箇所がある。「この落合川に添って上流に行くと、『ばつけ』という大きな堰があった。」「中井の町から沼袋への境いなので、人家が途切れて広漠たる原野が続いていた」。
「バッケ」と呼ばれるあたりの現在。崖上と崖下の高低差がはっきりわかるだろう。画面左手中央あたりの茶色い建物は目白大学の校舎である。
バッケあたりから高台に戻ると「中井御霊神社」がある。創建年は不詳とのことだが、古くからこの地の鎮守であったというこの神社で有名なのは新宿区指定民俗文化財「備射祭」だ。拝殿内には新宿区指定文化財である「備射祭絵馬」が掲げられており、今も毎年1月13日には備射祭として弓射の式が執り行われている。また、この神社には龍神を描いた「雨乞のむしろ旗」(新宿区指定文化財)が保存されており、これは高台での農業を干ばつから救うために使われていた。一方で低地のことを考えると、妙正寺川は現在も台風や豪雨で水位がかなり上昇するので、おそらく古くは何度も氾濫していただろう。妙正寺川を見下ろす高台にあるこの中井御霊神社は、そういった意味でもこのあたりの守り神だったのではないだろうか。
ひとつ前の写真の崖上に位置する「中井御霊神社」。境内にある狛犬は区内では最古のものだそうで、1715年(正徳5年)落合村下落合の人々によって奉納されたもの。
中井御霊神社でお参りを済ませ、八の坂を下って中井通りから中井駅に向かうと、染物の看板を掲げている建物があった。昭和30年代頃まで、妙正寺川流域には300軒を超える染色関連業が存在し、中井、落合界隈は京都、金沢に並ぶ染物の産地として知られていた。往時の賑わいこそないが、そうした文化遺産を引き継ぐべく、現在も「染の小道」という、染物を通じた文化発信と地域活性化を図るプロジェクトが実施されているという。
山手通りのガードをくぐってしばらく行くと、左手に小さな祠があった。「第六天」と記してある。第六天には「第六天魔王波旬」が祀られているのだが、この第六天魔王波旬、魔王とある位だから祟り神である。祟り神を祀り、鎮めることで厄災を回避する、ということなのだろうか。
中井通りで見かけた染物屋の看板を掲げた建物。「染の小道」プロジェクトでは、妙正寺川の川面に反物を張る「川のギャラリー」などが行われている(今年は終了)。
中井駅近くの商店街は、古くからの店も現存しているいかにも私鉄沿線駅前といった面持ちがいい。「私の仲のいい友達が、中井の駅をまるで露西亜の小駅のようだと云った」と、林芙美子は「落合町山川記」の終わり近くで書き、これに続けて当時の駅前の様子を描写しているが、この「露西亜の小駅」という例えが落合の文人たちの性向、すなわちプロレタリア文学の作家が多かったということと、この時代の空気を端的に表しているといえる。大正デモクラシーにより、民衆や女性の地位向上というムードが生まれたものの、都市化が進行するなかで働けど貧しい労働者層が増加。社会主義運動が台頭する。そうした時代の空気を顧みると、ロシア(この当時はすでにソ連であった)がずいぶんと身近なものであったのだろう。また、林芙美子や尾崎翠の著作の初出のいくつかは、『文學党員』『女人藝術』といった雑誌で、プロレタリア色の強い作家が多数寄稿していたし、彼女たちは政治運動こそしなかったが、プロレタリア作家との親交も少なからずあったのである。
文人、芸術家が落合、中井に住居を構え形成された「落合文士村」には、プロレタリア文学の最盛期には70名もの作家が暮らしていたというが、思想弾圧などにより1933年頃にはプロレタリア文学は衰退。それにともない落合文士村もその性格を変えていき、第二次世界大戦前にはほぼ解体されていたという。
「露西亜の小駅」のような雰囲気は、現在の中井駅からは感じられないが、かつてこの地に暮らした作家が遺した作品のなかの落合、中井を辿って歩くのも楽しいだろう。少し離れるが、聖母病院の近く、画家・佐伯祐三が創作活動を行った洋館が「佐伯祐三アトリエ記念館」として公開されている。
本文中何度か引いた「落合町山川記」を含む、林芙美子の随筆集。落合での暮らしをはじめ、当時の社会、文化や交友関係も垣間見ることが出来る。「貸家探し」「田舎がえり」「平凡な女」などを収録。/『林芙美子随筆集』林芙美子(著)岩波文庫刊
BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。
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