団子坂・三崎坂―はては呼ばれたか│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

全く新しい大人のwebマガジン

BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」

#032

団子坂・三崎坂―はては呼ばれたか

2015-08-18 14:17:00

雑誌『ユリイカ』2015年8月号「特集*江戸川乱歩」で、乱歩の没後50年を知る。江戸川乱歩が亡くなったのは1965年。こうして年号を掲げてみると、自分が生まれる3年前まで生きていたことに改めて気づいた。
乱歩好きの多くがそうであったように、わたしと乱歩との最初の出会いは学校の図書室だったと思う。ポプラ社版の「少年探偵団」シリーズ、大人向けの作品をリライトしたものを読んでいた。それと同時期だろうか、テレビドラマで『少年探偵団』というのをやっていて、そちらも熱心に観ていたのはよく覚えている。調べてみたらこの『少年探偵団』、1975年から放送開始ということで、乱歩没後10年のタイミングであった。ちなみにわたしは7、8歳だから小学校2年か3年である。並行して読んでいたのは、シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンのシリーズだったが、どちらかというとシャーロック・ホームズの方が好みだった。今思えば盗み出すことよりも、謎解きの方に興味があったのだと思う。そういったわけで、少年探偵団シリーズも小説の方に内容の魅力を感じていた(テレビドラマの方は、当時子供に人気だった自転車など、見た目の部分に惹かれていたのだ)。

江戸川乱歩の小説には、具体的な地名が登場することも少なくない。「押絵と旅する男」は富山の魚津だし、イニシャルにしてあるが「パノラマ島奇談」の冒頭に出てくるM県I湾は三重県伊勢湾だろう。東京となるともっとたくさんあって、「目羅博士」は丸の内、「人間豹」は京橋、「一寸法師」は銀座と、パッと思いつくだけでも枚挙にいとまがないのだが、タイトルに地名が用いられている作品となるとおそらくひとつしかない。「D坂の殺人事件」だ。

「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。わたしは、D坂の大通りの中ほどにある白梅軒という行きつけのカフェーで、冷やしコーヒーをすすっていた。」で始まる「D坂の殺人事件」は、大正14年(1925年)に発表された作品である。素人探偵として明智小五郎が初登場することでも知られる、乱歩のキャリアのなかでも最初期にあたるこの短編小説の「D坂」は団子坂のこと。団子坂とは、千駄木駅のほど近くにある坂の名前である。

団子坂は幕末から明治にかけて、菊人形の興行でつとに有名であった。文化9年(1812年)、駒込の染井村で始まった菊細工は何度かの流行を経て、安政元年(1854年)には団子坂にその中心を移す。歌舞伎などの名場面を、頭部と手足は人形、衣装は菊の生花で表現した菊人形は、明治9年(1876年)には東京府に請願して木戸銭を取るようになり、興行化して一大ブームとなった。「D坂の殺人事件」には「さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り広げられ」とあるが、明治時代は道幅もずいぶん狭く、菊人形の興行がひしめき合うように並んでいたのである。
現在の団子坂には、往時の面影はほとんどない。江戸川乱歩も書いているように、道幅もグッと広くなっているし、かつて秋口の風物詩であった菊人形の興行もない。
団子坂は別名「潮見坂」とも呼ばれていたが、これは坂の上から東京湾を眺めることができたからだという。その昔、坂の下は海だったのだ。

image2 夏目漱石「三四郎」にも登場する団子坂。これをさらに上ってゆくと「森鴎外記念館」がある。森鴎外記念館は鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で、その名からも海が見えたことがわかる。

この界隈は俗に「谷根千」といわれ、近年はちょっとした観光スポットにもなっている。団子坂下のせんべい屋「菊見せんべい総本店」、穴子寿司が有名な「すし乃池」、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」にも登場する千代紙の店「いせ辰」といった老舗は、いい意味で気取ったところがないし、古い建物をうまく生かしたカフェやギャラリーも多い。予備知識なしになんとなく歩いているだけでも気になるところがたくさんあるのが、このあたりの魅力だ。
また、谷中は寺町としても知られ、第二次世界大戦の被害が少なかったこともあり、現在まで昔ながらの街並みを残している。団子坂下から不忍通りを渡って谷中方面に進むと、先の「菊見せんべい総本店」や「いせ辰」のある通りだが、ちょうどいせ辰のあたりから始まる上り坂が「三崎坂(さんさきざか)」。この坂の左右にはかなりの数の寺院があり、それは谷中霊園まで続いている。一番千駄木寄り、左手にあるのが「大圓寺」だ。

image3 三崎坂の様子。画面右側の建物は谷中小学校だ。景観保持のため、外から見える部分は瓦屋根にされている。谷中霊園方面に進んでゆくと、あちこちに寺院が。別名「首振坂(くびふりざか)」。

高光山大圓寺は創建年代ははっきりとしないが、元禄16年(1703年)から現在の場所にあるといわれている。この寺の面白いところは、二連の本堂を持つところ。まるでふたつの寺が合体したような面持ちなのだ。向かって左には御本尊が、右の本堂である薬王殿には笠森稲荷がそれぞれ祀られている。
明治時代の神仏分離令によって仏教と神道の混合信仰、いわゆる神仏習合、神仏混淆が禁止された。これは明治政府が江戸の治世システムの一端を担っていた寺(仏教)を排除し、王政復古、祭政一致を実現するために発令したものである。この神仏分離令により、神社から仏教色が排除されてゆくのだが、大圓寺では笠森稲荷が「瘡守薬王大菩薩」つまり菩薩という寺仕様に改められ、存続することとなった。笠森とは瘡守であり、疱瘡、腫れ物にご利益があるという信仰(いうまでもなく、梅毒などの性病にも効果があると考えられていた)がいかに強固であったかを窺わせる話である。
この大圓寺は、明治の団子坂を賑わした菊人形をいまに引き継ぐ「谷中菊まつり」の会場にもなっている。昭和59年(1984年)から大圓寺で開催されている谷中菊まつりでは、必ず「笠森お仙」の菊人形が飾られるという。「明和の三美人」との呼び声も高かったお仙は、現在の谷中7丁目にあった感応寺の塔頭(たっちゅう・その寺院の祖師や高僧の徳を慕って、弟子たちが大寺の敷地内に建てた小院)である福泉院の参道の水茶屋「鍵屋」の看板娘。この福泉院には笠森稲荷があったが、明治に入って福泉院は廃寺となり、笠森稲荷の御神体は上野の「養寿院」に移された。明治26年(1893年)、福泉院の跡地に「功徳林寺」が建立され、改めてここに笠森稲荷を祀り、こちらは現存している。簡単にいうと、谷中には大圓寺と福泉院のふたつの笠森稲荷があって、お仙は後者の参道の茶屋にいた、ということになるのだが、後年どうしたわけだか大圓寺にお仙の記念碑が建てられた。おそらくは「谷中」と「笠森稲荷」が一人歩きして、どちらかというと存在感のある大圓寺に建てられることになったのではないだろうか。ちなみに大圓寺境内には、お仙をモデルに錦絵を描いた浮世絵師・鈴木春信の碑と、永井荷風による碑文が彫られた「笠森阿仙乃碑」(阿仙はお仙のこと)がある。

image4 高光山大圓寺。木がかぶさって分かりにくいが、左の本堂には日蓮聖人が、右の本堂には「瘡守薬王大菩薩」が祀られている。寺を正面に見て右側の煉瓦造りの外壁、門柱も立派だ。

大圓寺を後にし、三崎坂に戻ると、あちこちに白い幟が立っていることに気づいた。見れば「圓朝まつり」とある。それをぼんやり眺めながら坂を上ってゆくと左手に立派な寺があった。「全生庵」という寺だ。吸い込まれるように境内に入ると、本堂に「幽霊画入口」という看板が出ているではないか。炎天下のなか、ぼぉっとしながら階段を上り、いつの間にか「幽霊画入口」に立っていた。靴を脱ぎ、拝観料500円を払ってなかへ入る。
この幽霊画は、怪談噺を得意とした初代三遊亭圓朝(1839-1900)が収集していたものだ。パンフレットによれば「全生庵に所蔵しております円朝遺愛の幽霊画コレクションは、円朝歿後その名跡を守られてきた藤浦家より寄贈されたものです」とのことである。圓朝は落語家であったが、全生庵の開基・山岡鐡舟(やまおかてっしゅう)の導きにより禅を学び、京都天龍寺の滴水(どうりゅう)禅師より「無舌居士」の号を付与された。そうした縁もあり、圓朝の墓は全生庵にあって、全生庵ではいまもこの時期に「圓朝まつり」と称して落語会や先の幽霊画の展示が行われている。
展示室はこぢんまりとした部屋で、左右の壁面と中央に立ち上げたウォールを使って幽霊画を展示している。円山応挙、河鍋暁斎、鰭崎英明といった絵師たちの幽霊画は、すぅーっと消え入りそうで、それでいて確かにそこにいる幽霊を描いている。だいたいどれも足はない。ポーの「メエルシュトレエムに呑まれて」を彷彿とさせる、舟を題材にしたものもあった。が、最も怖かったのは、骨ばった手だけ描かれたものだ。属性の断ち切られた存在は実に不気味である。

image5 全生庵の本堂に上る階段の端に「幽霊画入口」の立看板が見える。全生庵には圓朝の幽霊画コレクション50輻が所蔵されているという。この日の来場者は年配の方が多かった。

一通り幽霊画を鑑賞し、今度は三崎坂を下ってゆく。全生庵の反対側には、「妙法寺」、「妙圓寺」といった寺、江戸川乱歩好きの方がやっているという喫茶店「コーヒー乱歩°」、銭湯「朝日湯」などがある。現在の朝日湯の場所は、関東大震災前までは「新幡随院法受寺」という寺だったという。大震災後、この新幡随院法受寺と、浅草の照光山安養寺が合併して足立区に「法受寺」が建立されたのだが、谷中の新幡随院は、三遊亭圓朝の名作『牡丹灯籠』で幽霊となって夜毎恋い焦がれた新三郎のもとを訪れていたお露と女中・お米の墓があったとされる寺。ちなみに足立区の法受寺には『牡丹灯籠』の記念碑が建てられているそうだ。

image6 全生庵の向かいあたりの様子。こちらは「妙圓寺」の入口だ。門からやや低くなった壁にも趣がある。もうしばらく下ってゆくと、千代紙の「いせ辰」や銭湯「朝日湯」などが。

真夏の日中の街歩きは3時間程度がいいところ。何しろ暑い。ということで、団子坂から谷中の徘徊はここまで。あとは後日譚を少しばかり記しておきたい。
この連載とは別の原稿のための調べ物で、武田百合子の『日日雑記』を読み直していたときのことだった。目当ての箇所は程なく見つかり(入院しているヤマキさんとO氏をそれぞれ見舞うくだりである)、どこを読むともなくほかのページを捲っていて驚いた。「炎昼、千駄木から三崎坂へ向ってゆっくり歩いて行く。左手のお寺の塀に、『円朝まつり』ののぼり旗と、『円朝コレクション幽霊画公開』の立看板あり」。なんと武田百合子も全生庵所蔵の幽霊画を見ていたのだ。このあと武田百合子は公開されていた幽霊画を箇条書きで以下のように書き出している。

⚪︎深夜愛児の枕辺に姿を現わした母親幽霊。
⚪︎蚊遣火と老婆幽霊。
⚪︎牡丹灯籠のお露。
⚪︎水死人幽霊。
⚪︎一通の手紙から現われた女幽霊。
⚪︎豪雨の中、庭に現われた幽霊。
(以上、『日日雑記』より抜粋引用)

幽霊画の題ではなく、見た通りを記しているのが実に武田百合子らしい。
『日日雑記』が雑誌連載されていたのは1988年から1991年の3年間。調べてみると、全生庵で圓朝コレクションが公開されるようになったのは1984年8月からということだったので、公開が始まってから5年前後の時期に、武田百合子も立看板に導かれるようにこの幽霊画を見ていたことになる。

そんなことに驚きながらこの原稿に取り掛かったわけだが、さらにもうひとつ、あとからわかって驚いたことがある。わたしが団子坂から三崎坂を巡り、幽霊画を観たのは8月11日だったが、その日は圓朝の命日であったのだ。圓朝に呼ばれたか、幽霊画が呼んだか。頭のなかに「カラコンカラコン」と駒下駄の音が聞こえた気がした。



団子坂の古本屋を舞台にした殺人事件から露呈するサド・マゾ趣味の極北を描いた表題作を含む、乱歩の初期短編、中編を集めた一冊。ほかの版もあるが、多賀新の手になる銅版画の装画が禍々しくも美しい春陽堂版でぜひ。/『D坂の殺人事件 他六編』江戸川乱歩(著)春陽堂 江戸川乱歩文庫刊

最近のコラム

青野賢一さんのINFORMATION

Writer

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。

kenichi_aono on Twitter