いい家
2020-12-07 15:08:00
本格的な寒さになった途端、家の給湯器が壊れてまさかの銭湯通いの西山です。フラームに憧れている若く美しい乙女たちの夢を打ち砕くようで申し訳ないのですが、フラームに22年所属している女優は、家で風呂に入れず銭湯通いです。小さな石鹸カタカタ鳴らして銭湯通いです。とはいえ、銭湯は家から自転車で3分の距離なのでさほど不便には感じません。広くて気持ちが良いですしね。それよりも洗い物がつらいです。東京の人は冷たいなどと言いますが、東京の水も冷たいです。なので、少しでも洗い物を減らすために、あれもこれもとワンプレート祭り。毎食、ほぼエサみたいな感じになっています。女子力ゼロ。まあ、自分が食べる分だけだから良いんだけどさ。それにしても修理の業者さんがなかなか来てくれない!壊れた翌日の朝イチで管理会社に電話をすると「業者さんから直接連絡させますね」とのことだったのでウキウキと待っていたのですが、連絡があったのはその日の夕方で、しかも「修理の見積もりを立てて管理会社の了承を得てから、日程のご相談ということで」と何だか雲行きが怪しい。その後、2日間連絡がなかったので、こちらから再び管理会社に電話。「業者さんに連絡してみますね」と、そこからまた音沙汰なし。修理の日程を決めるだけで随分とかかってしまいました。でもイライラしたところで何の解決にもならないので「ここはスペインだから仕方がない」と思うことにしました。業者さんが修理に来てくれるまであと数日、生ハムでも食べながらのんびり待つことにします。それにしてもあっという間の師走でありますが、日本は再びコロナが大フィーバー。そりゃGO TOトラベルにGO TOイートなんてやっていたら、こうなることは予測できたと思うのですが、さらにここで「GO TOトラベルを延長します!」なのだから、我が国の政府は正気の沙汰とは思えない。しかも報道されている医療従事者の悲鳴をマル無視しておきながら、自分たちが罹患したら優先的に病床を確保するのは目に見えていて、もう切なくなってしまいます。今に始まったことではありませんが、自分の身は自分で守らなくてはいけません。手洗い、うがい。そして不要不急の外出は控える。概ね守ってはいるのですが、先日どうしても行きたい場所があり、あまり人がいなさそうな平日の時間帯を選んで足をのばしました。それは横浜歴史博物館で開催されていた『俳優 緒形拳とその時代』であります。緒形さんとは2005年に放送された『瑠璃の島』というドラマで共演させていただきました。撮影地でもあった鳩間島で過ごした時間は、今でも私の財産です。もちろん最初はとても緊張しましたが、今になって思い出すのは緒形さんの笑顔ばかり。撮影の合間に旅の話をした時も、私が釣ってきた魚を見せに行った時も、緒形さんはいつもにこにこと接してくださいました。そんなある日の撮影時のことです。夜のロケ現場に大きな蜘蛛が出ました。蜘蛛は、長い手足でゆっくりと壁を登っていきます。スタッフがそれを仕留めようとしていたので、私は咄嗟に「夜の蜘蛛は殺したらダメです!」と言いました。きょとんとするスタッフに「えっとね、お客さんが来るからだと、母が言っていました」ともごもご。ロケ現場にお客さんが来たら、むしろ困るだろって話なので、我ながら何を言っているんだと思いましたが、その時一緒にいた緒形さんが「繭のお母さんはどこの生まれの人?」と訊いてきました。「山形です」「そうかあ」この蜘蛛の迷信に関しては地方によって様々で、むしろ夜蜘蛛は縁起が悪いという説の方が圧倒的に多いようです。なので、もしかしたら私の覚え違いなのかもしれません。しかし、こんな迷信で撮影を止められたら、スタッフはたまったもんじゃないですよね。撮影で「雲待ち」はあるけど「蜘蛛待ち」なんて聞いたことがない。余計なことを言ってしまったなと思っていたのですが、そんな私に緒形さんは「繭は、いい家で育ったんだな」と言いました。いつもの優しい笑顔を浮かべながら。ああ、今こうして書いているだけで鼻の奥がつんとしてきちゃう。「いい家」。由緒正しい家だとか、お金がたくさんある家だとか、そんなことではない「いい家」。それまでずっと、私は自分の家にコンプレックスを抱いていました。どうして普通の家に生まれなかったんだろう?どうして父親がいない家に生まれてきたんだろう?朝から晩まで働いている母の姿を見て、色んなことが不公平だと思いました。世間の理不尽さに腹が立ちました。そしてその感情は、いつしか私の家に対するコンプレックスと変わっていったのです。だからこそ、緒形さんに言われたこの言葉が忘れられません。今でも事あるごとに思い出しては、勇気をもらいます。大丈夫。ちゃんとやれる。まだやれる。横浜歴史博物館に展示された緒形さんの輝かしい軌跡の中には『瑠璃の島』の台本がありました。「いい家」で育ち、緒形さんと共演できた私はなんて幸せ者なんだ。そりゃ給湯器のひとつやふたつ、どうってことないさ。せわしい師走のある日、そんなことを考えました。
日本の女優、作家。東京都出身。
大学在学中の1997年、UHA味覚糖「おさつどきっ」のCMでデビュー。
テレビドラマを始め、女優として活動。
最近は小説やテレビドラマの脚本執筆など、活動の幅を広げている。
著書に『色鉛筆専門店』『しょーとほーぷ』『ワクちん』『バンクーバーの朝日』などがある。
オフィシャルサイト→FLaMme official website