古希│西山繭子の「女子力って何ですか?」

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西山繭子の「女子力って何ですか?」

#168

古希

2021-04-12 12:17:00

 少し前に母の古希のお祝いで温泉に行って来ました。母、姉、私での旅行はかれこれ十五年ぶり。この月日が流れる間に、ぴちぴちの二十代だった娘二人は立派なおばちゃんとなり、母は文字通り三人の男児のおばあちゃんとなりました。ここ数年、母の誕生日は私と二人で食事ということが多かったのですが、今回は記念すべき七十歳のお祝いということで、半年前から姉にも休みを調整してもらっての旅行となりました。しかし半年前から話をしていたわりには、諸々手筈を整えたのは寸前のことで、これはコロナ禍による状況の変化という理由もありますが、旅館を選ぶとか予約をするとか、そういったことを何もしてくれないであろう姉が今回もやっぱり何もしてくれなかったということにあります。「この温泉はどうかな?」「車じゃなくて新幹線にしようと思っているのだけど」「旅館にお花を用意してもらえるか訊いてみるね」等々、あれよあれよと気づけば姉がしてくれたのは相槌のみ。まあ、わんぱく盛りの男児を三人抱えながら仕事もして忙しいのは重々承知していますし、私もこういった計画を立てるのは好きな方なので構わないのですが、今回のサプライズを母に話した時「お姉ちゃんも行けるの?まあ、嬉しい!」と言われ、何だか腑に落ちなかった心の狭い妹なのであります。
 当日、雨予報だったお天気も何とかもって車窓から見える雲の隙間からは太陽の光が差し込んでいます。私たちは母を真ん中にして座り、グランスタ東京で買ったまい泉のカツサンドやあんぱんをもぐもぐ。ついでに母が持って来たお菓子やお煎餅をもぐもぐ。姉の「一戸建てが欲しい」という熱い想いを聞きながら、新幹線は一路三島へと向かいます。三人でこうして電車に乗っていると、幼い頃、祖父母が暮らす山形に行くために乗った特急つばさの思い出がよみがえります。母が作ってくれたおにぎり、ポリプロピレンに入った日本茶、そして床に敷いた新聞紙。これは上野から山形まで5時間半という長い道のりを少しでも快適に過ごすための策でありました。それでも幼い姉妹にとって、この時間はとてつもなく長かった。退屈しのぎに寝ている母のストッキングに空いていた穴を二人でいじっていたらびりびりになってしまい、目覚めた母が激怒するということもありました。そんな数々の悪事を経て大きくなった娘たちが、今回母にプレゼントしたのは登録有形文化財にもなっている宿『おちあいろう』で過ごす時間。島崎藤村、川端康成、北原白秋。名だたる文豪に愛されたこの宿に泊まれたことは、小説家のはしくれの私にとっても大きな喜びでありました。宿の玄関にかかる薄紅色の暖簾をくぐり、案内されたのは大きな窓がある広々としたラウンジ。そして棚に並べられた書籍を眺めていると、何とそこには父の本が。「お父さんもママの古希を草葉の陰からお祝いしてるんだね…」「いやいや、死んでないから」「あ、そうだった」チェックインを待つ間、私たちは早速スパークリングワインで乾杯をしました。この『おちあいろう』はオールインクルーシブ。母の性格を熟知した私としては、気兼ねなく母に楽しんでもらいたかったので、これは宿選びの大きなポイントでした。この日の宿泊は青藤というお部屋。眺めや備品にいたるまで素晴らしさにひとしきり興奮した私たちは、嬉々としてお風呂へ向かいました。ここの茶室サウナも楽しみの一つであります。「お姉ちゃん、太ってるー」「繭ちゃん、痩せてるわねー」「ママ、ヨボヨボだねー」と脱衣所で浴衣を脱いだ私たちは、みんなお揃いの赤いパンツをはいています。これは私が二人にプレゼントしたワコールの開運パンツなのですが、はたから見たら宗教団体のようです。その時間、他のお客さんがいなくて本当に良かったです。木漏れ日の中、三人でゆったりと天城湯ヶ島の湯につかります。「ああ、幸せ」川のせせらぎに母の言葉が重なりました。今から四十年以上前、幼い姉妹を抱えてひとりになった若く美しい母は、きっと幸せというものからとても遠い場所にいたことでしょう。それから母は必死で私たちを育ててくれました。今振り返っても、私の記憶の中にあるのは働いている母の姿ばかりです。子どもの頃、母が誰かと電話で話していました。「一人だったら無理よ。あの子たちがいるから頑張れるのよ」ケラケラと笑う母の横顔を眺めながら、子ども心にも大きな幸せを感じました。そして、大人になったら今度は私が頑張って母を幸せにしたいと思いました。温泉につかりながらぼんやりと空を眺める母に「これからはお祝いのたびにおちあいろうに来ようね」と伝えると「約束よ」と母が笑顔を浮かべました。「次は八十歳の傘寿だね」「いや、その前に喜寿があるわよ」「え?そうなの?」調べてみると、確かに七十七歳のお祝いがありました。その後も米寿、卒寿、白寿を経てようやく百歳の金寿を迎えます。「わりかし刻んでくるね」「だね」思わずボヤく姉と私。その言葉は、川のせせらぎにかき消されたのか聞こえないふりをしていたのか、母が「長生きしなきゃ」とつぶやきました。

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2021.4.12 配信

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西山繭子さんのINFORMATION

Writer

西山繭子

日本の女優、作家。東京都出身。
大学在学中の1997年、UHA味覚糖「おさつどきっ」のCMでデビュー。
テレビドラマを始め、女優として活動。
最近は小説やテレビドラマの脚本執筆など、活動の幅を広げている。
著書に『色鉛筆専門店』『しょーとほーぷ』『ワクちん』『バンクーバーの朝日』などがある。

オフィシャルサイト→FLaMme official website