民衆の歌│西山繭子の「女子力って何ですか?」

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西山繭子の「女子力って何ですか?」

#170

民衆の歌

2021-05-10 12:44:00

 3回目の緊急事態宣言が延長になると発表された翌日も、私の朝は変わりませんでした。朝4時に起床をして筋トレをしてからウォーキングに出発。この季節、東京の日の出時刻は5時前なので、外に出る頃にはもう空は明るくなっています。吐く息が白かった2回目の緊急事態宣言の頃とは違い、服装もどんどんと軽装になってきました。季節は移り変わっていくけれど、私たちの生活はいったりきたり。Airpodsを耳に入れ、今ではもう製造されていないiPod nanoをシャッフルに設定します。毎朝同じルートを歩くのですが、耳に流れてくる音楽によって、そしてその時の心の状態によって、見える風景は変わってきます。ニューキッズオンザブロックを耳にすれば1990年代を思い出し、ノスタルジックな東京が見えてきます。アイリーン・キャラの『フラッシュ・ダンス』を聴けば、ここは憧れの街東京、私は絶対にこの街で成功するわ!と足どりも速まります。そしてこの日、ウォーキングの途中にふと耳に流れてきたのは『Do you here the people sing?』でした。民衆の歌として知られるミュージカル『レ・ミゼラブル』の劇中歌です。誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。「民衆の声が聞こえるか?怒れる者たちの声が聞こえるか?」冒頭、歌はつぶやくように始まります。私の踏み出す足にも、民衆の怒りが宿ります。歌声は一人増え、二人増え、それはやがて大きなうねりとなります。「民衆の声が聞こえるか?怒れる者たちの声が聞こえるか?」まさに今、多くの人々が抱えている叫び。しかしその叫びは無情に、そして粗暴にかき消されます。外に出るな、店を開けるな、人と会うな、我慢しろ、我慢しろ、我慢しろ。補償?そんなもの知るか。ひたすら我慢しろ。コロナと闘っていたはずが、いつの間にか政府と闘っている私たち。それでも闘うことをやめてしまったら、私たちの明日はやって来ません。民衆は歌います。「新たな日々が始まるんだ、明日が来れば!」高くそびえるビルの背後から、朝日が私に向かってまっすぐに差し込んできました。これは希望の光。私は立ち止まり、まぶしさに目を細めながら拳を空に向かって突き上げました。「これは民衆の歌、二度と隷属しない者たちの!」私の横にはエディ・レッドメイン。心が震え、思わず涙がこぼれました。絶対に負けない、色んなことに。まだまだあきらめない、自分の人生に。そう胸に誓い、私は再び歩き始めました。たかがウォーキングなのに、これほどまでに壮大な気持ちになれるというのは音楽の素晴らしさでありますね。しかし、朝の井の頭通りで涙を流しながら拳を突き上げている43歳のおばさん。これはまさに、通報されても文句を言えないレベルです。女子力がないとかそんな話をしている場合ではありません。それでも私は、こんな自由な朝が大好きです。だって、このあとiPodのシャッフルが選んでくれたのはマツケンサンバですよ。朝から愉快この上ない。それにしてもこの延長となった緊急事態宣言、引き続き映画館は自粛対象のようで本当に本当に何だかなあ!
 前回も緊急事態宣言前に観た映画の件にふれましたが、その中でも異色のドキュメンタリー『SNS 少女たちの10日間』には非常に考えさせられました。チェコで制作されたこの作品は、12歳になりすました女優3人がネットでアカウントを公開するとどうなるかを検証したもの。「想像以上の現実にショックを受けた」という感想を持った人も多くいるようですが、かつて少女だった私からすると「まあ、そうなるわな」でした。映画の中でもそうなのですが、男たちはやたらと少女たちに性器を見せたがります。もう見せたくて見せたくてたまらないのです。私も中高生の時、何度と被害に遭いました。電車の中で座って本を読んでいたら見せられる。帰宅する道すがら電信柱の影から見せられる。バイトしていたスーパーのレジで見せられる。ただ日常を生きているだけで、見せられまくりです。「気をつけてね」と言われても「気をつけようがない」んです。さらに酷いことには、まわりに人がいても助けてもらえない時もありました。15歳のある日、電車の中は帰宅ラッシュでぎゅうぎゅうに混みあっていました。最初は手が当たっているだけかと思いましたが、その手は私の尻をまさぐり始めました。何とか逃れようと身体を捻りますが、身動きがとれません。もう少しで駅だからと我慢していたけれど、その手は図々しくも私の制服のスカートをたくし上げ始めました。私は恐怖と嫌悪に震えながら、何とか声を絞り出しました。「やめてください」って。痴漢しているクソ野郎に敬語で「やめてください」って。車内が静まり返りました。私は怖くて振り返ることができなかったけれど、まわりの大人は誰が何をしているのかわかっていたはずでした。電車が駅に止まり、車内から人が吐き出されると同時に男は私のことを突き飛ばし、一目散に逃げていきました。若いサラリーマン風の男でした。そしてその時、男を捕まえてくれる人はおろか、呆然とホームに立ちつくす私に声をかけてくれる人もいませんでした。この映画を観てそんなことを思い出すと同時に、43歳になった今、私は大人として誰かを守れる、心に寄り添える人間でいたいと改めて思いました。朝の井の頭通りで涙を流しなが拳を突き上げているおばさんの、心に灯った正義の炎は誰にも消せないのです。

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2021.5.10 配信

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西山繭子さんのINFORMATION

Writer

西山繭子

日本の女優、作家。東京都出身。
大学在学中の1997年、UHA味覚糖「おさつどきっ」のCMでデビュー。
テレビドラマを始め、女優として活動。
最近は小説やテレビドラマの脚本執筆など、活動の幅を広げている。
著書に『色鉛筆専門店』『しょーとほーぷ』『ワクちん』『バンクーバーの朝日』などがある。

オフィシャルサイト→FLaMme official website